永遠のソール・ライター
ソール・ライターというのはNYの写真を取り続けた写真家の人である。
この人の写真を見るとたしかにNYという街を取り続けているように思える。
ところが実際目にしていると「街が主役」というような陳腐な言葉では説明できない写真だと思った。
ピントとは文字通り写真を取る際に合わせる焦点のことだが、ライターの作品ではこれが人物から外されていたり、わかりやすく作品の中央に配置されているわけではないから、どうしても人が主人公の普通の作品とは異なって見える。
ところが展示品の中にも名前が入った作品や友人、見知らぬ人を移した作品もたくさんあって、彼が撮っている街というのは人も含めての街なのだということがわかる。
要するにどこにピントを合わせるか、という問題で単に人にあってないことが多いだけだ。彼らが名も顔もない人間でただの背景に過ぎないとは全く異なる。
面白いなと思うのは構図で人があまり主役でないということに通じるが、縦か横に伸びていて、建物や特に多いのが道の全体に占める割合が多い。
ライターは道を撮ってたと言っても過言ではない。
ケアルックが書いたのは「路上」だが、ライターもストリートにこそアメリカの人生があるのだと思ったのだろう。
生活感のある家の中ではなく、他人がいてかからわざるを得ないストリートこそが真のLifeなのだ。
(カラー)写真が長いこと芸術と認められなかったと、キャプションにあった。
ライターの写真は芸術的である。というのは価値が認められたあと私達がありがたがってみているという意味とは違って。(それもある)
彼の作品は前述の通り意図的にぼかされている。意図的に写真の一部に余計なものが写り込んで視野を狭めている。ガラスの反射を写って見えにくくしている。
いわば撮り手の恣意、作為が実際に写真に反映されている。
写真とは真実を移しているわけだから作為性を潜ませるのは難しい。
一方では絵画はどんなにうまく写実的に書いてもリアルではない。
ライターの写真は恣意をにじませて現実をデフォルメしようといする明確な意図がある分絵画的だと思った。
だから彼がファッション雑誌の写真を請け負っていた(それに採用された)のも頷ける。単に商品のディスプレイではなく(たとえ真実が損なわれても)美しい画をとるから。
妹デボラを撮った一連のシリーズの中、全体がぼやけた階段が占める画で妹の後ろ姿がほんの少し写っている写真、それが一番良かった。生活があり、そして誰かにとってはそれは非常に愛すべき、他に代えがたい無二のものだと感じさせる。
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