いまなぜかこの本

『アジア的ということ』に関するノート総論
                の休憩時間
     または、その『敗北の構造』

 ☆アパシー君(以下☆アパシー)
 ★雑誌のおじさん(以下★お)

☆アパシー「あのさ、例の澤村さんから反論がきたみたいだよ、おじさんどうすんのさ」

★お「不味いね、ぼくは、口下手だから(笑)それにこの人を傷つけること言ったっけ?おじさんは澤村さんに敬意を持って話したはずだけど。」

☆アパシー「いい加減なことを言うなみたいな論調だったから、一応説明してみたら?」

★「しょうがないな、まあ吉本隆明の西洋コンプレックスの話については、また別の機会に。ここではその手のコンプレックスは、明治以来つい最近まで、日本の典型的な知識人が、それも優秀であればあるほど持たざるを得なかった悲劇とだけ言っておくよ。1960年代に入るまで農業が、基幹産業だったのは、別に普通の印象で以下の数字がそれを裏付けてるわけなんだよね。アパシー君、頼むよ。」
 
☆アパシー「はい、第一次産業、第二次産業、第三次産業の就業者の割合は、1950年(48.5 %.21.8%.29.6%) 1960年(32.7%.29.1%.38.2%)で、確か1960年まで農業の就業者割合は、第一次産業全体の9割弱だったはずだよ。これをみる限り、農業が基幹産業の一つである、という認識は、まあ妥当な言い方なんじゃないのかな?でもおじさんの言いたいことは、別にこんな数字なんかでは表せないということなんでしょ。」

お「おっ、アパシー君、おじさんの考えがちゃんとわかってるー」

アパシー「神社信仰でも、本当に天皇制の本質と力を象徴しているのは、靖国や伊勢みたいな表舞台じゃなくて、日本全国あちこちのこんもりした場所に残る小さな無名の祠なんだ、って、よく散歩しながらおじさんが話してくれたじゃない。」

お「まあそういうことさ、わたしたちの捉え方だと天皇は、農耕社会の宗教的な主宰者だったという観点なので、農業人口が多い時代は、少くともその根拠を数字で表した方がわかりやすいと思っただけなんだよね、それから天皇が国民の精神的な主柱だったというのは、天皇制の本質をどうとらえるか、ということにかかってくるんだけど、もちろん政治的主宰者としての天皇は1945年に敗戦で表舞台から退いてはいるけどさ、思想的な、ある意味潜在的な牽引力というか吸引力は、農業人口が全体の半分のくらいになる1955年前後まで明らかに大きな力を持っていたんだ、1970年に『などてすめらぎはひととなりたまひし』という言葉を三島由紀夫がつぶやくようにわたしたちの心の奥におとして、市ヶ谷で落首したときに誰の目にも、政治的な意味ではなくてね、なんというかその奥にある思想的な天皇制の陰りが明白になったんじゃないかな?わたしたちの捉え方では天皇の存在意義は、もともと象徴が本質だから表舞台に立つかどうかはあまり重要じゃない、そういう意味では、『日本の一番長い日』前後に象徴としての天皇制を戦争放棄の宣言とともに、新憲法(現在の憲法)の前文に盛り込んだ、当時の政治思想的な指導勢力であった、日本政府とGHQマッカーサーのブレーンたちの慧眼には、やはり瞠目せざるを得ないだろうね。」

アパシー「最後に奴隷制社会の終末についての根拠はどうなの?」

お「これも数字で示せないわけでもないけど、これについては、長くなりそうなんで改めて各論でやるから、ちょっと待っててね。それから休憩は、これで終わり。各論までは、もう説明はしないから。」

アパシー「おじさん、そんな言い方しても、全然可愛くないんだよ(笑)澤村さんは、澤村さんの立場でその考えをしっかり示すだろうし、否定するつもりは毛頭ないんでしょ?」

お「その通り、カッコつけてるわけじゃないけど、本当のことを言うだけだから他意はないんだ、と改めてここで言っておくよ。
それにやり始めちゃった以上、わたしたちはもっと先にいかなくてはならないから・・・、じゃあアパシー君、次もよろしくね😃」

アパシー「アノね~😅😓😅」

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