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当たり前がなくなるのはいつだって突然

この1年間ほど、僕が1番お金を使ってきたのはお菓子かもしれない。それもけっして高級なお菓子ではなく、スーパーやコンビニで買えるような市販のお菓子だ。もはやお菓子を食べることは生活の一部となっており、概算ですが1週間で3000〜4000円くらいは使っている気がする。とくべつ美味しいと思って食べているわけではないのですが、いわゆる口が寂しいってやつですね。何か味のするものを口のなかで転がしておきたいのだ。これってもしかして多動の一種でしょうか。

そんなお菓子マイスター()な僕がお気に入りの商品が「チェルシー」だ。キャンディですね、日本人であれば誰しも1度は食べたことがあるかと思います。スーパーやドラッグストアだと、3種類の味が楽しめるアソートパックが売られている。バタースカッチ、コーヒースカッチ、ヨーグルトスカッチの3種。僕はとりわけヨーグルトスカッチが好きで、この味だけをひたすら舐めていたい。なので、100均に売っている1つ1つの味が別パッケージになった商品を買います。商品棚には、バター、コーヒー、ヨーグルトが1列ずつ並んでいる。僕はヨーグルトにしか目がありませんので、ヨーグルトのみを何袋かまとめて購入。そのためだけに100均に通っていた。しかしある日、いつもの売り場に行くとヨーグルトスカッチが消滅していた!チェルシー自体は並べられているのですが、バター、バター、コーヒーというラインナップに変わっていた。目当てのヨーグルトがない。おそらく僕が買いすぎて供給が追いつかなくなったのでしょう。片田舎の100均ですから、1人の消費者の極端な行動による影響もバカにならないはずだ。ぐ、仕方ない。ということで、少し遠い店舗でヨーグルトスカッチを確保しました。後日改めて確認に行くと、ヨーグルトは復活を遂げていた。よかったよかった。

そんな日々を送っていたのです。それが僕にとって何気ない、けれども小さな幸せだった。1年間毎日食べ続けていたけど飽きない味。食べても食べても「あと1粒」と手が止まらない。そんな当たり前の日常。けれど、当たり前がなくなる時なんてあっという間なんだ。当たり前が当たり前である必然性などどこにもなく、偶然同じ状況が続いていたにすぎない。サイコロを振って連続で同じ目が出ようとも、次もまた同じ目が出る保証など皆無。でも、どうしたってそれを残酷に感じてしまう。

突然だった。明治「チェルシー」3月で販売終了。そんなニュースの見出しが僕の目に飛び込んできた。そんな馬鹿な。僕がいま毎日取り憑かれたように食べているこの味が、消滅するということか?自分の知っている味が、もう二度と味わえなくなる。この世から消滅する。それがどういうことなのか、手元にあったチェルシーを1粒口に入れると、非情な現実をまざまざと感じた。けれど、本当に非情なのは僕のほうなのかもしれない。おそらく、半年後にはすっかりこの悲しみも忘れてしまっていることでしょう。終売を知った今がもっともショックで、落ち込み、この先どうすればいいんだとすら考えるくせに、どうせすぐに忘れてしまうんだ。そっちのほうがよっぽど冷酷だ。この1年間は毎日のように食べ続けたかもしれないけど、それまでの20余年は数年に一度食べるかどうかだったじゃないか。そのくせ販売終了の知らせを見てその場限りの悲しみを表明するなど片腹痛い。だったら何も言わず、最後の1粒を食べるまでひたすら味わい、感謝の気持ちを噛み締めればいい。それが真のお菓子マイスター、だろ…?少なくともこの1年間は毎日美味しく楽しく食べさせていただきました。ありがとうございました。それでは、またいつかお会いできる日まで。

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