自分の善意からくる言動が、本当に相手にとって必要なのかを良く考えて、実行するかを判断したほうがいいかなという話。

善意からくる行動でも、時に相手を傷つけてしまうことがある。自分自身、そういったことをした経験をいくつも覚えているし、自分自身がされたことについてはもっとよく覚えている。

日本で、ハーフとして生きていると、相手の善意からくる言動に対して、ストレスを感じることが非常に多い。優しくて良い人ほど無配慮な親切心をぶつけてくるので、無下に扱うこともできず、非常に困惑させられる。

例えば、スーパーのレジ打ちの人が、自分の顔を見た途端、焦ったように「袋……バッグ……ニード??」とカタコトな英語で、オーバーなボディーランゲージとともに、一生懸命にレジ袋の要否を聞こうとしてくることがある。相手は親切なつもりなのかもしれないが、自分のことを完全に日本人だと認識している自分からすると、こういったことをされるたび、日本人の輪の中から自分が除外されているのだと感じて、苦しい気持ちになる。

苦笑いしながら、流暢な日本語で「要りません」と返すと、相手に「あっ、失礼しました」と無駄に謝らせてしまうことになってしまい、ここでも相手に嫌な思いをさせてしまったのではないかと、さらに苦しい気持ちになる。

このような調子で、あらゆるケースで日常的に相手の善意からくる言動で傷ついてしまうことがある。

困っていそうな人に手を差し伸べるのは非常に素敵なことだと思う。ただ、相手の容姿だけで勝手に手助けをするべきではないかと判断するのは、相手を傷つけうる。

つらつらと、こんなことを書いている自分だって、今までの人生できっと何度も容姿だけで人を判断して無配慮な言動をしただろうし、ありがた迷惑な言動をして相手を困惑させたことが何度もあると思う。

では、どのようにすればこういったストレスを相手に出来るだけ与えずに暮らしていけるのかを考えると、大切なのは、自分が思いついた善意の施しを実施するかどうかは、自分の尺度でなく、相手の尺度によって決めることなのかなと思った。

例えば、友達にプレゼントを贈るとき、自分の欲しいものを相手に渡すことはほとんどないと思う。相手が欲しいものを考えるか、共通の友人に聞いたりして渡すことが多いと思う。

それと同じように、相手への善意の行動は、自分が必要だと感じるかどうかで実行するかを決めずに、相手にとって本当に必要なのかどうかを良く考えてから行動に移したほうがいいのかもしれないと考えた。

またどこかの機会でこのアイデアを試してみて、自分に向いているかどうか判断しようと思う。

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