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【エッセイ】交差点での信頼感

僕は交差点を徒歩、もしくは自転車で渡る際、車が曲がってくるかもしれないという危機感を常に持っている。曲がってくる車があれば、”私ここにいますよー!渡ってますよー!”というアピールも込めてドライバーの方を見るようにしている。というのも、僕は人は目線を感じることができると思っているからだ。本当ならオーバー目に側転でもしながらドライバーが明らかに気づくようにしたいが、少しだけ照れ屋なので、目力を最大限に高めてアピールしている。

ただこれが立場が変わり、僕が運転をしていて、交差点を曲がろうとするとき、全くこちらを見ることなく自信満々に肩で風を切って渡っている人がいる。そんな人を見るたびに僕はこう思う。

「そんな信頼する?」

人間関係の希薄化、蔓延る詐欺、政治家たちの汚職、そんな”信頼”とは真逆の話題を目にすることが多くなってきた世の中で、あの歩行者とドライバーの信頼関係は美しささえ感じられるほどだ。

一方でその美しさの中に危険性を感じている僕だが、実際ドライバーに視線を送っていることによって、目が合ってしまうことがある。これがなかなか気まずい。すぐに僕の存在を感じ取った後、目線を逸らしてくれたらいいが、数秒見つめ合ってしまう場合がある。これは正直気まずい。これに対する対応策は現在急ピッチで考えているが、今のところ会釈が適作かな。

僕がこんな風に考えるようになったのは、留学中のある出来事がきっかけだ。ある日の放課後僕は数人の友人たちと帰路についていた。そして学校から500mほど離れたところにある交差点に差し掛かかり、前を歩いていた2人が道路を渡ろうとしたとき、一台の車が友人たちに気づかず右折をしてきて、接触する寸前の間一髪のところで止まった。

僕は一瞬ハッとして固まったが、友人が轢かれなかったことにまず安心していた。すると次の瞬間、2人のうちの1人が車のボンネットをぶん殴った。そして怒りの形相でドライーを睨んだ。これは一触即発や、やばいことになりそうやな。と思った瞬間、ドライバーは、集合時間に3分遅刻した際に見せる少し申し訳ない程度の笑顔と、こっちが日本人ということをわかってなのか、傾斜角度20度に満たない程度のお辞儀をかまして走り去っいった。

普段温厚やったのにめっちゃ怒ってる友人と、人轢きかけてるのに全然悪びれてない兄ちゃんという、最近の早朝と日中並みの寒暖差に動揺した僕は、この時からなんとなく交差点で人を信頼しすぎるのはよくないなと思うようになった。

異国の地でも身の危険に対して堂々と対応した友人、そして名前も知らぬ軽ノリ兄さん、あなたたちの行動が無駄にならないよう僕はこれからも安全に気を付けます。



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