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街の再生~故郷への帰りかた~

昔住んでいた街は、古くて、シャッターだらけで、活気がなくて、路面が傷んでボコボコしていて、高齢化が進んでいて、交通の便がわるくて、往来を歩く人などおらず、およそ先端文化など指先に触れることもできないくらい、どうしようもない街、だった。中学生の私からは少なくとも、そう見えた。大人たちの娯楽といえばパチンコだけ。駅舎もちいさくて、レトロと呼べればいいのに、中途半端に新しくて古い。

その街に今年、新しいカフェができたと聞いて行ったのだ。

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そのカフェは、私の人生から見ても十分に特別だった。

第一に、サイフォンコーヒー専門店である。あの、古びた純喫茶に置いてある摩訶不思議なガラスの器具。コーヒーマニアでもない私にとっては、理科の実験道具と見分けがつかない。というわけで、かなりなじみの薄いジャンルになる。

第二に、盆栽を眺めながら、コーヒーを飲む。観葉植物の世話くらいはするが、せいぜいが水をやって枯れた葉を取りのぞく程度だ。盆栽博物館の近所にでも住まなければ、手を出そうというきっかけさえ掴めない。こちらもあまりに遠い。

その二つを兼ね備えた店は、しかし、ゆるやかな坂にそって瓦屋根の建物がひしめく城下町の街道沿いにあって、扉をくぐれば、古民家の梁を生かして小綺麗に新調された瀟洒で清潔な内装。そしてカウンターに立っているのは、立派な顎髭を生やした理科の先生でも、白髪の盆栽の名人でもなく、若く明朗な和装の男性であった。

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彩本堂

聞けば、サイフォンコーヒーというのは、熱いのだという。

ドリップコーヒーの場合、一番熱いのはお湯が沸いたときで、そこからコーヒーを落としているあいだ、外気やカップに触れ、温度は下がる一方である。サイフォンの場合、加熱しながらコーヒーをいわば「煮出す」状態を経過し、さらに、出来上がった琥珀色のコーヒーを温め直して提供する。

「だから、はじめはカップを持つのも熱いので、気をつけて。香りを楽しんでください」

一息ついて、鼻先をカップに近づける。森閑とした、甘い、やわらかな香り。すーっと脳内が晴れていく。ふと、木の香りがする。木造の建物自体が、なんだか森のような香りがしたのだ。

さらに、コーヒーカップの横にコトリと置かれたものがあった。

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「回して角度を変えたり、手に持ったりして、眺めてみてください。ちょうど、実が赤くなってきたところなんですよ」

テーブルにちいさな木陰をつくり、コーヒーの水面がゆらいだ。葉がよく繁り、実はたわわで、いま最高の状態で生きています、と言わんばかりの姿。慌ただしい日常のなかで、植物を間近に、ゆっくりじっくりと愛でることなど、ずいぶんしていなかった。

木は、当然のことながら、生きている。水を吸い上げ、枝葉を伸ばす。人も、街も、同じように、生きて成長する。木はその地から逃れられないけれど、だからこそ人は、その地をのがれて、さらに最高の状態で成長できる場所へと向かう。そして、最高の成長を願い、成す。

それで言ったら、街はその地から逃れられない。木と一緒なのだ。

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中学の頃、街の様子がそんな感じであったものだから、いや、それが理由なのかどうなのか、同級生たちはほとんど市外や県外に出てしまった。今だから伝えたい。こんなお店ができたんだ、このお店だけじゃない、あの頃にはなかった文化が、いまは確かに、ここにあるんだ。ちょっとずつ、良くなってる。

伝えたい。伝えたい、けれど、で、それで?

恐い。

「本当だね、いいお店ができて、街が賑やかにお洒落になってきているみたいで、よかった。きっと、都会においてすら出会えないような、素敵なコンセプトをもつお店もあるんだろうね。実家の両親に勧めておくよ。農業はうちは、去年たたんだんだよ。

上の子は来年、中学に上がるんだ。受験をするものだから、いまの時期は親子して必死だよ……」

街が美しく再生してくる。私も、ふたたび街に近づきたくなる。多くの人々が、同じ気持ちでいてくれる、そのことが、街に残った私の誇りであり、支えである。けれどそれは、過去にこの街が失ったものを取り戻していく過程では、決してない。

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誰もに、生物学的な両親がかならず存在するのと同じようにして、誰もが故郷をもつ。親を選べないのと同じように、故郷となる街を選べないのもまた、今風にいうところの「街ガチャ」なのだろう。子供は、その記憶の礎となる街、風景、人々を選べない。親とちがって、近所のいやな頑固オヤジは避けて通ることができるかもしれないが、街はちがう。記憶のいちばん底にこびりついて、それは、上書きしようにもできない、子供の頃の記憶特有の性質をおびて死ぬまで残る。

ただし、街には、それ自体に善意も悪意もない。その街を好きと思うか嫌いと思うか、その方向を決めるのは、周囲の大人の意見なのだ。何もない街だ、古くてどうしようもない、市にも金がないからな、産業がないんだから仕方ない。

「寒かっただろ、おこたに入りな。今お茶を淹れるからね。さあ、おにぎりをお食べ」

街に善も悪もない。それを決めるのは、大人のまなざしだ。

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故郷とは、どこにあるんだろう。

家のなかは暖かくて、やかんのシューっと噴きだす音がする。窓の外はぼんやりと、でも燦々と明るい。おばあちゃんはいつも笑顔で、半分目を瞑ったような様子で、小さくて丸くて厚ぼったい手でまだ熱いご飯を平気な顔で掴んで、まんまるいおにぎりを握ってくれる。梅や菜っ葉や味噌や、まだ中身が見えないうちから、塩おにぎりは甘くて、お腹よりさきに心がずっと満たされる。

遠いイメージだ。実際はそんな経験、なかった気がする。

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ちいさくて弱くて格好わるい自分なんて、きらいだ、思いだしたくもない。立派に大人になって、処世術と職を磨いて、まともぶって街を闊歩するスーツ姿の自分のほうが、スマートで、格好いい。朝は、にぎやかな往来の音を爽やかに浴びながら水辺をジョギング、昼は本を買って、整ったレンガやブロックづくりの街のカフェで知識を蓄え、夜は話のわかる格好いい友人と飲みながら語る。

最高に格好いい。最高に成長しきった、自分。

けれど本当は、帰りたい。帰って、暖まりたい。帰る場所はどこにあるのか、いまはもう、分からない。


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