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モテるために楽器を始めるべきか

「モテたくてピアノを始めました」とか「ギター始めました」という話はよくある。実際、音楽部活に身をおいてみると、そういう男子は多いし、女子として楽器ができる男性は魅力的だ。

一方で、「モテたくて楽器を始めたやつがモテるようになった例を見たことがない」という話を最近きいた。

えーそんなー。かっこいいよ、ピアノ男子とか。反射的にはそう思ったけれど、いったん立ち止まって考えてみる。かっこいい人が、さらにピアノも弾けたら…めちゃくちゃかっこいいけれど、そうでもない人が急にピアノ上手くなってたら好きになるのかどうか。

「モテこそが正義」とは、忘れられない恩師の言葉のうちの、燦然と輝く一言である。(正議論の講義の直後にきいた)。モテると子孫繁栄するから、最終的な世界(つまり今)は、モテた者たち(人間の遺伝子にかぎらずあらゆる生命や文化も含め)の子孫で満たされるとすると、その理論は確かだろう。

モテなければ、子孫は残らない。残らないもののことを他の者が、なんのきっかけもなく思いだしたり覚えていることは、まあ、あまりない。毎日通っている道の建物の一軒が壊されて更地になると、多くの場合、どんな建物がたっていたか不思議なほど思いだせなくなるのと同じで。そうやって「モテなさ」は淘汰されていく。

モテたいのは、一個人の感情であって、モテたらその瞬間が快いから、楽器を始めるのだろう。べつに、子孫繁栄のことなんか考えてもいない。一方、モテられたい(=惚れたい)という反対側の欲求は、モテる人とのあいだに子孫をなすことで、自分の遺伝子も残したいというもの。残っていくけれど、やはりそこは子孫のことなんか考えていなくて、ただただ一個人の感情としてかっこいい人と時をすごしたいだけだ。

「そうでもない人が急にピアノが上手になっていたとしても、そのことでそれほどモテるようにはならない」のかどうなのか、この問題は検証したわけでないから、真偽は不明だ。私の感覚としては、まあ、ピアノが弾けなかった頃から知り合いの人で、その頃もそうでもないなと思っていた場合、ピアノが弾けるようになったところで劇的な恋愛に発展することは、あまり考えられないかな、と思う。その理由は、その人の核が、ピアノを始める前の要素ですでに埋まっているからだと思う。ピアノが弾けるようになってもならなくても、人間の核は変わらない。

一方で、ピアノが弾けるようになってから知り合った場合はどうか。ファーストインプレッション「ピアノ上手!」がインプットされ、その人の核はまずピアノになるだろう。そして、人柄をだんだん知っていくうちに別の要素がピアノという核の周りに付随してくる。この場合、ピアノが弾けるという要素はプラスの要素か、評価が低かったとしてもイーブンな要素なので(あの人ピアノ上手くてさーもう最悪、とかいうマイナス要素の感想は想定しにくい。ライバル心??)、別のマイナスな要素があったとしても、「××なところあるよね、でもピアノは弾ける」と、マイナス要素を埋める役割をしてくる可能性がある。

総合的にみて、楽器を始める前からの知り合いにたいして劇的な効果は見込めないが、新たに知り合う人にたいしてはプラスになりこそすれマイナスな面はない。だから、モテるために楽器を始めるのは、一つの手である、やればいいんでないかい? ということになろうかと思う。

ただしここで、「演奏技術をモノにするのはすごく時間や労力が必要だし、金もかかるし、本当にできるようになるかわからない。だったらできるだけ稼いで金のあるやつとしてアピールしたほうが、コスパがいいんじゃないか? 稼いだ結果モテなくても金は残るし」と思っている人はおそらくモテない。

音楽は時間芸術とよばれる。その時、その瞬間の音の発生に意味があるし、その瞬間瞬間の連なりにこそ機微がある。過去でもなければ、未来でもない。今のこのひと時のために、演奏家は、他人には見えないところで一心に鍛錬を積んで、そのひと時を実現する。ここにはふたつの「時間芸術」がある。そのひと時に含まれる時間、そして、過去の膨大な努力の時間。

恩師はさらに言った。「老人ホームでモテるのは、小難しいことを言う私のような学者ではなく、楽器ができる人間だ」と。

楽器ができれば、未来すら約束される。

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いかがだっただろうか。

これを読んで、楽器をやる人が一人でも増えたら、私は嬉しい。超絶にうまくなくたって、音楽が鳴っている場所は、空間が豊かだ。ちなみに私は先月、30代半ばにして1からピアノを学びなおすことにした。小学校のときはレッスンが嫌でゲームがしたくてしかたなかったけれど、今はひとつの和音を鳴らしその和音に潜む雰囲気、感情、色のようなものを感じるのが楽しくてしかたない。あの頃もドミソを押して和音を耳で聞けてはいたけれど、それを感じることはなかった。多少なりとも感性が育ったということか。

それに、今は学びの環境も充実していて、YouTubeで様々な方の解説をきき、いろいろな角度から理論を見直すことができる。良質なコンテンツも多くあって(本当に感謝)、本当にすごい時代だ。こんなすばらしい教材にあふれた世界で生きる今の子供たちの、将来つくる世界はどうなってしまうんだろう。期待もあるし、怖さも半分以上ある。今のおばあちゃんが「カンタンスマホでようやくツイッター投稿できました」なんて比でないくらい、私がおばあちゃんになる頃には、扱えない技術が増えていそうだ。

楽器ができてモテるかどうか。一女子としての意見だが、「多くの時間や労力を割いて、ひとつの楽器のため、一途に努力を重ねることのできる人間は、信用に足る人である」と書きながら思った。どんなにお金持ちで、どんなにいい先生についても、結局は自分でがんばらなければ演奏技術は手に入らない。裏でお金を払ってごまかせない。多くの人はプロを目指して楽器を習うわけではないから、お金を得られることはそうそうなく、それどころか、楽器を買ったりメンテナンスをしたりと出費がかさむ。それでもやるのは、音楽が好きだからだ。

こんなにも嘘がない世界、ほかにあるだろうか。



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