生きさせてもらうこと と 生きたいとねがうこと

自分のためにやっていることなら、あまり感謝されない。相手だってわかってるんだよ、それが本当は本人のためになってるんだって。好きなようにやればいいんだ。感謝されようとも思われないようなことを、好きに。相手に感謝されるから、感謝を期待できるから、という理由でやっているなら、いますぐやめたほうがいい。それか「生きさせてもらっている」と逆に感謝したほうがすっとする。

それに、なんでもかんでも「感謝して生きろ」っていうあれも、感謝を感じることのない人間(悪魔とかサイコパスとかいう意味の人ではなく、ただ単に、「有難かったなあ」と思わない人、の意)に言ったって意味はない。だし、感謝を感じることがなくかつ善良な人にとっては重荷にしかならない。言った人はたぶん、感謝をした結果人生が好転した、と言いたかったのだろうけど。

で、すべてがまとまったところで、自分を好きでいられますか?

自分で自分のことを好きでいる気持ちのことを「自尊心」という。一般的には幼児期に虐待をうけると自尊心は、大人になっても低いという傾向があるらしい。ネグレクトはまさに自尊心を低める要因だろう。だって、自分の方へ笑いかけてくれる人が人生のなかで一人もいないのだ。そういう親をもつ子供の多くは幼稚園保育園にも行っていないし、そもそも家のそとへ出ることを知らない。「世界では、大勢のいろんな人々が自分をとりまいている」という感覚を持っている子ども(人)は、そういう意味じゃ幸せなのである。

自分を好きすぎても困る。自分が一番、じゃ周囲はなかなかついていけない。「人は独りで生きていけない」もまた私が疑問を持つフレーズのひとつではあるのだが(金があれば可と思うのだが、まあ想像するだけじゃ見えない問題も生じるのだろうな、と予測)、それが正しいとして、周囲がついてきてくれないようなナルシストは、生活の道を失うかもしれない。

人は自分の状況から離れて自分をとらえることはできないだろうと思う。

自分の容姿、思考、能力、習慣、文化。

「きみ有能だね」「あなた美人ね」「Youはやさしいね」

なんて言われて悲しむ人はいないだろう。自分を美人と思っていて、それを他人にも言われたら、「やっぱり」とうれしくなる。自分が思いもかけないことを褒められても、「そんなことないですよ」と謙遜しながらうれしくなる。

しかし、これらはいずれ、取りはらわれるのだ。残酷な現実だが、取りはらわれる。若い生物活動を基準とした美しさは年齢とともに皺をよせ、脳のうごきや手先のうごきに準拠した能力も年齢とともに削がれていく。

自分の状況、自分が既得していた「ひいでた部分」をうしなっても、自分を好きでいられますか? それが自尊心。

人は、自分の状況からはなれて自分をとらえることはできない。だがしかし、仮に離れてみたときに、自分を好きでいるかいないかの差は、個人差として歴然と存在するように感じる。

その判断基準は、シフトの速さ。

自分の好きな自分の一部をうしなっても、二番目に好きな部分を挙げられますか? そうすれば、自分を保っていられる。自分が好き、という気持ちこそが、自分を「生きさせたい」とねがう、自分の心。

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