見出し画像

信心業と創作、そして聴取体験

「ロザリオの祈り」と並び伝統的に大切にされているカトリックの信心業「十字架の道行みちゆき」は、キリスト受難の足跡を「死の宣告」から「十字架上の死」までの14の場面(留 Station)に整理し、そのひとつひとつを黙想しつつたどるというもの。大抵の場合、教会聖堂内にそれらを示す14の絵(あるいは簡単なプレートなど)が壁や柱に設置されていて、信者たちは聖堂内を歩きながら、その〝留〟に留まり祈りを捧げる事を繰り返す。復活祭前、キリスト受難を偲ぶ四旬節の、特に金曜日にこの信心業が行われる。

ラテン語ではそのまま Via Crucis(十字架の道)となるが、日本語の伝統訳名の「道行」には、浄瑠璃や歌舞伎などのイメージだろうか、どこか風流で艶めいた言葉の響きがある。しかしこの「道行」はそうした趣きとは異なり、痛みと苦しみが同行者でもある。
ドラマティックなテーマゆえ、リスト Franz Liszt の名作はもとより、現代においてもマリウス・コンスタン (Marius Constant, 1925-2004) の作品《14 Stations》はじめ、この信心業を題材に仰ぐ音楽作品は少なくない。かく言う私も今世紀の初めに1曲書いた(弦楽四重奏曲)。ちなみに発表時の他のラインアップが中国の譚盾タン・ドゥンの弦楽四重奏曲第1番《風雅頌》(おそらく日本初演)とロシアの作曲家フリドの弦楽四重奏曲第5番という趣味全開の演奏会だった(自前企画である…今はようやらん)。

さて、ロザリオにしてもこの〝道行〟にしても、身体的な行動が伴う。もちろん心のイメージの中のみで進めていく事もできるのだが、ロザリオの珠をひとつひとつ指でたぐり、その触感とともにアヴェ・マリアを唱える、また主の受難の場面を描く(またはそれを象徴する)場所に自ら足を運び、その場所 Stations に佇むという実際的に〝動的〟な行為に集中させられる事で、いつしか雑然とした世俗の空気から離脱し、聖母の前、十字架の前に〝ただそこにいる〟自分を見出すことになる。

音楽作品を聴く体験は、このような信心業の〝動的〟な一面にも似ている、と思う事がある。演奏会に足を運ぶ、メディアを操作して再生する…それ自体がすでに、聴取者自らの意思が伴う積極的な行為であり、作品の演奏される一定の時間、〝ただそこにいる〟自分が〝ただそこにある〟音たちとの出逢いに没入する。そうした体験を経て日常に戻る時、その体験前とは少し違う自分をそこに見出すだろう–––––「あの時間を過ごしてよかった」という想いとともに。

創作にあって、聴き手が目の前で繰り広げられる作品をどう受け止め、どう感じるかは、それぞれの〝体験〟に属するものであり、作者が立入れるものでもない。ただ、その〝体験〟を離脱して、演奏会場から日常に戻った時、演奏を聴く前とはまた別の「この時間を生きていてよかった」といった想いが残せたとしたら、しがない曲の書き手としては「報われた」と安堵に胸をなでおろすことだろう。

作品の聴取体験は〝観想の種〟になりうるものだと思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?