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「お花屋のおじいちゃま」は、今もきっと
訃報に接することが、とみに増えた。
もう30も後半なのだから当然といえば当然なのだけれど、いまだ慣れない。
心が沈むとか、心に穴が開くとか、ありきたりな形容だけれど、そうとしか言いようのない気持ちになる。
その昔、ドリカムが名曲「SUKI」で
(心に穴が開くってこと、分かった気がする)
と歌っていたとき、小学生だったわたしは
なんだか素敵な響きだわ〜と甘い気持ちになったけれど、体験してみるとそれは甘美さとはほど遠く、ただただ切なく、苦しい。
自分がひとつ、またひとつと削り取られていくような。大切なものがいつのまにか減っていくような。
あぁもう会えないんだ、思い出が増えることはないんだ、と静かに理解して、ぽっかり穴の空いた部分を抱えたまま、時間薬でどうにかごまかして生きていく。
喪失感は、うめようがない。
亡くなったのは、ご近所の花屋さんである。
娘たちが「お花屋のおじいちゃま」と慕っており、もう10年近くお世話になっていた方だ。
その花屋さんは、切り花の質もいいのだけれど、園芸ものがとにかく良かった。
素人目にもわかるほど活き活きとしたものばかりで、特に実がなる苗の選定はピカイチに素晴らしかった。
お花屋のおじいちゃま、のこだわりがつまったお店だった。
ひとつ300円程度の小さな苗でも、熱心に日当たりや水やりの助言をくれる。
他店で買ったお花の不調でも、こまかく相談に乗ってくれる。
心底、お花が好きなんだと伝わってくるのだった。
コスモスを買う時、花壇に植え替えたいと伝えたら
「この子はいまの鉢が十分で何の不足もないから、できればこのままにしてやってほしい」
と悲しそうに言われたことも覚えている。
時期も短いコスモスが、植え替えのストレスにさらされることを心配されたのだろう。
わたしは自分好みの花壇を作りたいだけ、それも大して勉強もせずてきとうに好みのままやってみたいだけで、寄せ植えされる花の気持ちなんて考えてもみなかった。浅はかな自分を、ひっそりと恥じた。
紫陽花は日本が原産で、ヨーロッパで品種改良されて日本に逆輸入されたものが流通している、とか
お話も面白いものだから、常連はみんな話しこんだものである。
その様子をいつもニコニコ眺めながら、花を包んでくれたのが「お花屋のおばあちゃま」だった。
昨年から、おばあちゃまが店頭にお一人で立つことが増えたな、とは思っていた。
園芸ものの品数が減ってきている、とも感じていた。
嫌な予感はしていたのである。
先週、ついにお店が縮小していた。
今までの花屋スペースはがらんどうで、空きテナント募集のポスターが貼られていた。
すぐ隣のお住まいで、軒先に少しだけお花が並べられていたのである。
意を決して「お店、こちらにうつすんですか」とお尋ねした。
実は主人がね…
そう切り出して、おばあちゃまは色んなお話をしてくれた。
病気がみつかってから、あっという間だったこと。
年の初めに家族総出で、素敵な旅行にいけたこと。
奮発して、好きなプランを全部選んだけれど、
それがいまも、慰めになっていること。
何十年もずっと毎日一緒に働いてきて、
おしゃべり好きなご主人だから話は絶えなくて、
それでもまだ、話し足りなかったなぁと思うこと。
なんでこんなに静かなのかしら、と不思議なこと。
あとからあとから涙がこぼれて、止まらなかった。
道路に面した花屋で、車の轟音に晒されながら
わたしたちは泣き続けた。
おばあちゃまの寂しさを、わたしは、きっと本当にはわかっていない。おばあちゃまの悲しさも、きっとわたしがはかれるものじゃない。
テンプレのお悔やみなんか言えない。
陳腐な励ましなんてできない。
お礼をいえるほど、気持ちの整理もつかない。
アラフォーにもなってわたしは、ただ泣くことでしか哀悼を伝えられない。
こどもじみたおばさんで情けない。
それでもおばあちゃまは、
ありがとうね、と何度もいってくれた。
帰り道、まだ幼い次女に
「どうして、ママもおばあちゃまも泣いてたの」
と尋ねられ
「おじいちゃまが天国へいってしまったの」
そう答えると、また涙があふれる。
「おじいちゃまが見つけてくれた、すごくいいイチゴの苗あるでしょ。あれをずっと絶やさないようにママはがんばる。大事にしようね」
あの大きなイチゴ。甘いイチゴ。
毎年アリに襲われる、宝石のようなイチゴ。
おじいちゃまが「これは最高の苗だ!いいのを見つけたよ!」と得意げに持ってきてくれたあの苗を大切に増やしていこう、そんなことを思った。
飼っていた魚や虫の死は経験したことがあれど、
次女にとって「死」は、まだ絵本のなかの出来事らしい。
それでも神妙な面持ちで、家までずっと黙っていた。
母親が人目も憚らず泣いているのだから、相当な事態だと思ったのだろう。
帰宅して花を植え替えていると、そばに寄ってきた次女がやっと口を開く。
「ママ、泣かないで。
きっと新しいおじいちゃまがきてくれるからね」
真顔で言うので、時が止まった。
新しい…おじいちゃま…だと…?
なん…だと…?
次女なりに、わたしを慰めようと考えてくれたらしいのだけれど、それにしたって、な、なんてこと。
だめよ、人の命はそんなお手軽なもんじゃないのよ、不謹慎だし、ちょっともう、これはほんとにだめなやつ、ちゃんと伝えなきゃ、と私の頭が騒いでいたら
ふっと、おじいちゃまの声が降ってきた。
おじちゃんはアンパンマンじゃないよ!!!と。
あぁ、そうだ。
あのおじいちゃまなら、このアウト発言にもノリノリで突っ込んでくれるだろう。
おばあちゃまが盛大に笑う様子も目に浮かぶ。
お二人は、そういうご夫妻だった。
いつもわたしたちを、ほっとさせてくれた。
いろとりどりのお花で、たくさんの美しさを教えてくれた。飽きないおしゃべりで元気をくれた。
その光景は、もう2度とみられない。
けれどいただいた思い出は、ずっと風化しない。
申し訳なさと懐かしさと、有難さと悲しさが入り混じった感情がこみあげてきて、わたしはまた泣いた。
泣いて泣いて泣いて、そして、すこしだけ笑った。
ほっとした顔をする次女を思いきり抱きしめる。
土のにおいと、こども特有のお日様のにおい。
おじいちゃまはきっと、天国でもお花をたくさん咲かせているだろう。
※みんなのフォトギャラリーから、茨城のカメラマン仲居さまのお写真を使わせていただきました。ありがとうございます!
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