見出し画像

「中世」は決して旧くない、むしろ新しい。

我々を支配する「直線的」な時間感覚を根底から支えるものとして、近代から始まる「思想史」の流れがある。
我々の倫理の教科書は、近代哲学を切り開いたデカルト、スピノザ、ライプニッツを指して、あたかも彼らが「それまでの中世の迷妄から脱した初めての人間たち」であるかのように描き、神学論争に明け暮れたスコラ学者たちとの「断絶」を意識させる。
しかし、この見方は本当に正しいのか?

中世史家のジョン・マレンボンによると、近代哲学は、それ以前の中世のスコラ哲学の系譜を脈々と受け継ぐ思想であり、そこに一切の断絶は存在しない。
デカルトはトマス・アクィナスに、スピノザはマイモニデスとクレスカスにその思想の淵源を持ち、ライプニッツに至っては、デカルトが排除したアリストテレス的形而上学を再び哲学にもたらしたという。
つまり、彼らの思想には何一つとして「根本的に新しい発明」はないのである。

近代の「始まり」において新しさがなかったとなると、その後「モダン」への批判意識が強まり、ダーウィン・ニーチェ・マルクス・フロイトなどによって「ポストモダン」へと解体されていく流れも、もしかして「新しい動き」ではないのかもしれない、という気がしてくる。

中世哲学へのこのような再考は、その起源を求めてさらなる古代へと目を向けさせるよう我々を促す。すると、もっと面白い「パターン」が見えてくる。

金子晴勇による「ヨーロッパ思想史」においては、以下のような雄大な思想史上のサイクルが活写される。

①アウグスティヌスからトマス・アクィナスに至って完成した知の体系が、ドゥンス・スコトゥスとオッカムのウィリアムによって解体される。

②その後、エラスムスやルターが人文主義やプロテスタンティズムを興隆させ、ロックらが近代哲学の基礎を築き、カントとヘーゲルが思想体系を完成させるも、マルクスの社会思想やフォイエルバッハの人間学などで解体される。

つまり、我々が把握できる範囲で少なくとも2回は、「A:霊性の盛り上がり→B: 霊性と理性の融合による体系の完成→C: 進んだ理性による体系の解体」というサイクルが起きているのだ。

現在我々は、サイクルの中のC段階に位置するが、これが「思想史の終わり」では決してないのである。近代哲学が決して「始まり」ではないのだからして、ポストモダンも決して「終わり」ではない。どこかの段階でA段階に再び戻るのであり、その流れは9・11を経てハンチントンの「文明の衝突」が出版され、宗教という存在がもう一度国際政治の中心に躍り出てきたこととも関係してくるだろう。

グローバリゼーションが現代特有の危機であるかのように思う人も多いが、果たして21世紀の「9・11」の衝撃は、15世紀の「コンスタンティノープルの陥落」を超えるインパクトを持っていたといえるだろうか? 

『クザーヌス 生きている中世』の著者である八巻和彦によると、グローバリゼーションによる国家と個人のアイデンティティの危機、および「文明の衝突」という概念は、すでに15世紀の思想家クザーヌスのタタール人への眼差しの中に存在していた。つまりこれらの国際政治の最先端の課題ですらも、技術的な難しさは先鋭化されているとしても、本質的な意味で新しい問題では決してないのである。

目を転じて、自己啓発書コーナーに数多立ち並ぶ「成功哲学」系の書物すらも、中世の錬金術にその思想の淵源を持つということを指摘しておきたい。

例えば19世紀アメリカで「現代成功哲学」を喧伝したナポレオン・ヒルの「思考は物質である」という言葉は、その前の代のプレンティス・マルフォードの言葉から引いたものであり、マルフォード自身はその著作のなかで、中世の錬金術師パラケルススの本から多数の引用を引いた。パラケルススの本業は医者であったが、彼は錬金術を医学に応用することで人間の意識と身体の神秘的結合関係に基づく独自の医学体系を創造し、ローマ時代の名医ケルススを凌駕した「パラ(超)ケルスス」と名乗った。マルフォードによれば彼の錬金術とは、心の力によって物理的現実を変容させる一つの体系的方法論だった。

ここまで見てきたように、現代思想の淵源は全て中世に求められ、我々は決して歴史から断絶された存在ではなく、古代から脈々と受け継がれる伝統の中で生きているのである。

我々は今こそ、中世に学ばなければならない。
なのに、日本には中世思想についての入門書が少なすぎる。
書店の本棚に、現代思想のコーナーと同じくらい中世思想の本が並ぶ日を夢見ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?