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「落書き」としての世界を愛する

脳科学を学ぶと、こんな気持ちになる。

五感が描く物理的世界は、人間に知覚可能なスペクトルの「絵の具」を用いて、脳という幼稚園児が描いた「落書き」にすぎない。

白い色彩だけで描かれた絵が存在しないように、五感という「絵の具」が消え去った時点で、わたしたちの世界はもろくもくずれ去るだろう。

死とは、わたしという夢から覚めることだ。

わたしがみているこの「世界」と、
わたしが暮らす「社会」と、
その一員としての「わたし」はすべて、
高等多細胞生物としての脳が生物学的必然性によって生み出した機構が不可避的に生み出す夢であり、言うなれば脳の落書きだ。

こう考えてみると、人生なんてバカらしくてやっていけなくなる。

しかし、こう考えることもできる。

この世界は夢だが、わたしという経験を可能ならしめているこのエネルギーは、永遠普遍の場所にあり続けるだろう。

そして、この「世界」という夢を、わたしをあらしめているのと同じ巨大なエネルギーの群れが共有している。

幼稚園児の落書きであるこの「世界」は、いかにそれが不完全で醜くあるとはいえ、それでもやはり、唯一普遍のこのエネルギーの流れの総体の「模写」であり「比喩」であることに変わりはない。

そして、わたしが誰かとこの「落書き」の世界の中で交差した事実は、永遠の実相の何かを象徴する事件であり、そこで起こった出来事の全ては軽んじられるべきではない。

だから私はこの「落書き」の世界の醜さを痛感しながらも、決して蔑んだり、軽んじたりはしない。

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