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「自分軸」で生きるということ

知的好奇心と、本当に自由な知性は違う。それは、「重力によって突き動かされる天体」と、「自分自身が重力になること」くらい違う。

知的好奇心の背後には、「征服欲」がある。この広い世界の全てを、「真実」という形で自らの支配下におきたいという飽くなき欲望がある。その知は権力の性質を帯び、やがて自由を求めたはずの知性は自らが「世界」を規定する権力の牙城そのものとなっていることに気づく。この世界を「知る」ことによってしか把握することができない限り、この権力の網の目から本当の意味で抜け出すことはできない。

しかし、この「知」=「権力」機構の存立基盤だった「文字」というメディアは衰退し、流動的な電子メディアの台頭と共に、世界を規定していた「真実」=「権力」が揺らぎ始めている。この揺らぎは一時的なものではなく、不可逆的な変化として私たち「人間」を増加する強度でもって揺さぶり続けるだろう。つまり、権力の基盤であった絶対的な真実は消滅し、それに伴って知のハイアラキーは流動化する。しかし、だからと言って不安になる必要はない。それは「メディア」の変貌であるにすぎず、太古から続く私たちの宇宙が、その違った顔を私たちホモ・サピエンスに提示し、それに伴う「人間」と「社会」の変容を不可避的に要請しているにすぎないからだ。

本当に自由な知性は、全ての構造変化の背後にあってそれを駆動するエネルギーを知覚する。それはその構造を作り出すと同時に限界を認識する。つまりその知性は「無知の知」を恒常的に味わい続けることを愉しむ。「無知の知」とは自らの認識の限界を常にその限界の境界線において認識し続ける行為であり、固定された知の静的構造の中で自己満足的な征服行為に勤しむ「知的好奇心」とは比べ物にならないほど、極めてダイナミックな知的営為である。

そして、「自己中心の世界観」と、「自分軸で生きること」は、他人を自らの引力圏に引き込む恒星と、全ての引力の背後にある重力そのものと一体化することくらい違う。

自己中心とは、結局他者の規定する評価軸の中で最適化を図る運動、あるいは他者が勝手に圧縮したデータに基づいて描画されるグラフィックデータによってこの宇宙というゲームをプレーする行為にすぎず、他者の引力圏に引き込まれた惑星あるいは彗星となることに等しい。

この宇宙は無限のエネルギーで充溢しており、一瞬一瞬の中に永遠がこれでもかというくらいにひしめき合っている。その驚異的なエネルギーの洪水を、ただエネルギーとして味わうことを通して、人間はいつ何時でもその本来の意識に立ちかえることができるだろう。

自らが重力そのものであることを自覚したときに初めて、人間は本当の自由を味わう。どんな真実も、どんな権力も、その重力に逆らうことはできない。


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