見出し画像

「人生」が「ゲーム」なら、その「ゲーム」丸ごとゴミ箱に捨てた時に初めて本当の人生が始まる

ある程度スピリチュアルな生き方について解説した本の中には、「人生はある種のゲームであり、そのゲームをクリアするとスコアが上がって、それが上がれば上がるほど死後にいい世界に還れる」などという世界観がある。

私はそれは極めて浅薄な解釈だと思う。

人生にスコアなどない。目的などない。誰かが決めた評価軸の上を歩む人生など、人生ではない。そして、人生は断じてゲームなどではない。

誰かが設計したゲームをクリアすることに、何の意味があるだろうか?
誰かが設計した評価関数を最大化するために七転八倒することに、何の意味があるだろうか?
そんなのは人工知能にやらせておけ。

確かに人生には解決すべき問題が山積みであり、それを一つ一つ解決することに人間としての喜びがある、という解釈は真実だと思う。だが、そのゲームに何か「攻略法」や「正解」がある、と思い込むのは単純に間違っている。

もし私の人生に、どこかの誰かが設計した「攻略法」があるなら、私の代わりにそいつがプレーすればいい。もしそうなら、私が生きる意味はどこにもない。今すぐ私はこの人生をログアウトしてそいつに引き渡すだろう。だが、実際にはそのような「攻略法」などはどこにも存在しない。だから私には生きる意味があるし、この世界には存在する意味がある。

私がこの人生を生きている意味は、この私の人生における苦しみを解決できる力を持つ人間は私しかいないからだ。なぜか? 
この複雑なる世界は常に変転して、縁起の理法の網の目の模様として常に固有で特殊で一回的な新しい状況を出現させ続けており、私もまたその網の目の一つとして生み出された存在だからだ。私という存在の網の目が私を苦しめているなら、それを解けるのは私しかいないのだ。

仏教では「苦集滅道」という言葉でそれを表現する。執着を捨てた心境は「滅」という独特な涼しさを持った心境として描かれる。私はこの「滅」が、「ゲームをクリアーした状態」とは思えない。むしろそのゲームそのものをまとめてゴミ箱に捨てた時に初めて見つける心境が「滅」である。

この「滅」の状態に至ることは、その人自身の心を変えることによってしかできない。この目の前に展開する複雑な現実を、ありのままに見つめたときに、問題と見えしものがそもそも問題ではなく、自分を苦しめていたものがそもそも存在すらしなかったことに気づく、その転回こそが「滅」であるはずだ。

この世界を超越した「真実」を求めることに何の意味があるだろうか?
現実から目を背けたものに、真実が姿を現す日は永遠に来ないというのに。

私は決していわゆる真理の追求を諦めてはいない。ただ、プラトンが言うような静的・絶対的な真善美の「イデア」がどこかに存在するという観念に対して異議を唱え、謙虚なソクラテスの姿勢に立ち返りたいと願うのみだ。

命を懸けた議論を通じて真理を彫琢することを欲するソクラテスの哲学は、プラトンが恋慕した静的・絶対的な「イデア」概念とは本来縁遠いものだったはずだ。プラトンは、ソクラテスの説いた「対機説法」型の真理を、ピタゴラス→パルメニデス風の数学的体系に落とし込もうとし、よりピタゴラス寄りの思考を持つアリストテレスがそれを完成させた。しかしその時点で、ソクラテスが本来求めていた、動的な真理観は失われたと言っていいだろう。

私たちを取り巻く世界は驚異的な複雑さに満ちており、無限の潜在力を持っている。そこから「これが善である」と言ったような真理を導き出すことなど無謀な試みであり、ゲーデルが証明した通り、完全無欠な真理のシステムを生み出すことも不可能なのである。

同時代を生きたその他の四大聖人、すなわち仏陀、孔子、イエス・キリストも、皆「対機説法」型の人間だった。つまり、その状況状況に合わせて教えを説いた。たとえば孔子は、「仁」という言葉に、決して固定的な定義を与えなかった。弟子一人一人を見て、違った定義を行った。それは「仁」という概念そのものが、我々の前に現出する、縮減不可能な複雑さを伴った固有で特殊で一回性を帯びた「状況」によって姿を変えるものだったからに他ならない。

この世界からどこか遠く離れた場所にある真理を恋慕することは、目の前にある苦しみからの逃避である。むしろその苦しみを真正面から見つめ、その中に自らの存在という結び目を解くきっかけを見出すことこそが、本当の人生への道ではないだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?