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上総介を偲びながら、鎌倉への流通路を辿る~十二所、太刀洗、朝比奈から金沢へ~

*太字引用は全て『誰も知らない鎌倉路』(御所見直好著、集英社文庫、1983 年)から。

① 光触寺

 光触寺は時宗の古刹で、本尊は「頬焼阿弥陀」の伝説を残し、前庭の「塩嘗地蔵」はほのぼのとした里話を伝える。

(126 頁)


 時宗の開祖・一遍上人が開基と伝えます。本尊の木造阿弥陀如来及び、両脇侍立像(頬焼ほおやけ阿弥陀)には、盗みの疑いをかけられた法師の罰の身代わりになり、頬に焼き印が残ったとい われる伝説があります。

(寺の案内板より)

 本堂の前の「塩嘗しおなめ地蔵」は、六浦(現・横浜市金沢区)の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵さまに 塩をお供えしたといい、いつも帰りには無くなっていたとこ ろからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入っ てきたことがわかります。

光触寺山門
時宗の開祖・一遍上人が開基


本堂の前の「塩嘗しおなめ地蔵」

② 十二所果樹園から富士見野展望台へ〜上総介邸跡

 バス通り(新金沢街道)に戻り、十二所神社バス停まで一停車分歩いて、上総介の屋敷があったと言われる十二所果樹園を目指す。

 十二所は、鎌倉の最東部にあり、昔は十二郷ケ谷と呼んでいた時代もあった。この地名は、鎮守の十二所神社が天神七柱、地神五柱の十二祭神だからとか、あるいは大昔はたった十二戸だけの一寒村だったから、それでこの地名が生まれた、などと言われている。
 新金沢街道から十二所神社の参道にかかるその路傍に、あちこちが欠け落ちて、原形も定かでない石の野地蔵がポツンと立っている。これは江戸末期(文政・弘化年間)の頃のことか、鼠木綿の着物、手甲、脚絆に身を固めて厨子を背負い、かねを叩いて家ごとに銭を乞い歩きながら、諸国を遍歴するが、たまたま通りがかりに、近くの高木家の馬に蹴られて死んだ。地蔵はその六部ろくぶの回向に高木家が建てたもので、四季折々の野花が供えられている。

(91頁)


*富士見野

 富士見野は、十二所の農家組合が営む果樹園で、地名は貝吹地蔵近くの天台山との重複をさけて、近頃になって著者が呼んだもの。明治初期のころか、地主の山口義高氏が、富士が美しく望まれるこの地へ、富士浅間をまつって仙元碑(今は西側の竹の密林の丘に移してある)を建てた。そのために、「浅間さま」とよばれる仙元峰でもある。
 丘というよりは、大きく隆起した山塊で、主に小松山だが、周囲の山腹には、広い道路をめぐらし、道路から上に向かっては段々畑を形作っている。そこへウメ、クリ、モモ、野菜などがつくられている。

(119-125頁)


梅の実がたわわに実る。(2022年5月撮影)


 標高 149m の富士見野は⻄に富 士、東に房総半島が見える高地。 鎌倉を取り巻く山の中では最高 峰の大平山(159m)の次に高い。
ここが鎌倉から房総半島を望 める唯一の地と聞くと、ここに屋 敷を構えた上総介の望郷の念が 偲ばれる。

 東側:晴れていれば、房総半島が見える。


西側:これまた晴れていれば富士山が見える。

③ 太刀洗から朝夷奈切通を通る

 朝夷奈切通との分岐に戻り、左に戻って歩を進めると、しばらくして清流の中に、竹筒から流れ出るわずかな水流を見つけることができる。案内板は草木に覆われて見えにくくなっているので、注意。


*梶原太刀洗水

 鎌倉に幕府が開かれて間もない頃、梶原景時が上総介千葉広常を頼朝に讒訴ざんそした。
治承4年(1180)8月、配流の地伊豆で旗上げした頼朝は、緒戦の石橋山でもろくも敗れて、そのまま安房に逃れた。そこでかねて通じてあった東国の諸将に呼びかけて、再起の軍勢の編成にかかった。
 頼朝の呼びかけに応じた諸将が続々と馳せ参じたにも関わらず、ただ千葉広常だけは一足遅れて参加した。その頃既に頼朝討伐の平家の大軍は、東国に向けて出発するという情報がもたらされていた。頼朝にすれば一兵たりとも喉から手が出るほど欲しい時である。広常の兵一万五千が鎌倉に向かっていた頼朝の陣にようやく追いついたのは隅田川のあたりだった。頼朝は内心ホッと安堵しながらも、なお土肥実平に広常の遅参を責めさせた。その挙句、「何分の沙汰があるまで、後陣にひかえよ」とやっている。無論すでに参加している諸将への見せしめと、それに虚勢も加わって高飛車に出たのだろうが、それにしても頼朝にとって、広常の遅参はよほどこたえたらしい。
 もともと広常は、将門や遠祖平忠常の例に倣って、京都に刀向かい、東国に独立国を築く野望を秘めていた。その後、鎌倉幕府の中にあっても、実力者なだけに、頼朝に媚びへつらうことはしなかった。ただでさえ警戒心の強い頼朝である。そこへ景時の讒訴である。石橋山合戦の惨敗で死地に追い詰められた頼朝を、味方を欺く機知で助けた、その張本人景時の上申なだけに、頼朝もあっさりそれを信じて、逆に広常を疑うことになったのであろう。
 寿永2年(1183)12月、頼朝の秘命を受けた景時は広常の屋敷を訪れ、何喰わぬ顔をして広常と双六を打った。いかにも熱中しているようなふりをしながら相手のスキを狙っていた景時は、突然、双六の盤越しに広常の首をかき切った。目的を果たした景時は、早々広常の屋敷を逃れ出て、この清水で太刀の血糊を洗い落とした、と伝えられている。その伝説の場が「梶原太刀洗水」である。
 毎年、9月中下旬の頃になると、この太刀洗水の落ちる真下のつまり太刀洗川の土手には、あたかも広常の血に染められたかのように、数十本のヒガンバナが真紅に彩り、路を隔てた広常邸址と伝える丘にも、数百本もの群落のヒガンバナが、これはまた血しぶきを浴びた広常の化身であるかのように、あたりを紅炎に染めて咲く。

(97−98頁)

*三郎滝

いよいよ朝夷奈の峠に至る湿った岩肌の坂道を登ろうというところで、この切り通しの由来となる碑が現れる。その横に流れる「三郎滝」と呼ばれる小滝の水音に癒される。三郎とは、和田義盛の三男の朝比奈三郎義秀のことで、木曾義仲の妾であった巴御前が義仲の死後、義盛に嫁いで産んだ子という説がある。


*無阿弥陀仏供養塔・道造供養塔

 峠の頂上の路傍には、江戸末期の頃もまだ念仏を唱えながら道普請みちぶしん(道路修理)をしたのであろうか。「安永九年(1780)十二月吉日・峠坂道普請、南無阿弥陀佛」「文化九年(1812)四月吉日・道路供養」と記され、片隅には念仏道普請の里人の世話人の名が小さく刻まれた石の碑が、クズの蔓に絡みつかれたまま立っている。

(103頁)

*朝比奈峠

 この峠を切り通したのは鎌倉時代だが、当初はかなり険しい坂道であった。江戸初期の延宝年間、この往来の苦しみを少しでも救おうと、僧浄誉向入じょうよこうにゅうが発願して大きな改修をやっている。延宝3年(1675)には、向入の徳を慕った里人たちが、像を刻んだ碑を峠の登り口に建てた。どうやら念仏道普請の始まりも、その辺なのかも知れぬ。

 ともあれ塩嘗地蔵の縁起のように、昔、金沢六浦の行商人が、鎌倉の街へ物資を運び込むには、皆この峠越えをした。今でも大きな荷物を背負って、登ってくる人のあえぎの呼吸が、岩肌に染み込んでいるようでもある。
 つい大正期までは、この峠を上り降りする旅人や行商人が休む茶屋が、ここに二軒あった。左側岩壁の高い位置に、垂木を嵌め込んだような角穴、その下には竈の跡がある。穴も竈もおそらくその茶店の跡であろう。また傍らの岩が凹んだ棚には、この峠道に縁ある人のものか、葬者の法名を記した、そう古くもない納骨箱が置かれたりしている。峠道も、やはり夏の茂りと冬枯れどきが、いちばん人影のまばらになる季節である。
 それはともかく朝比奈峠は「鎌倉七切り通し」のひとつ。鎌倉期は東部固めの要衝だった。最初の開鑿かいさく工事は、頼朝をたすけて鎌倉幕府の初代侍所別当をつとめた和田義盛の三男坊で、豪傑だった朝比奈三郎義秀がおこなった。峠の名もそこから生まれたといい、しかも彼は、この峠を“一夜で切り開いた”というふうに伝説されている。
 まさかこれだけの峠坂を、たった一夜で、というわけでもなかろうが、一夜というほどの短時日で工事をあげた、という意味だろう。が、正史の上の施行の功労者は、三代執権をつとめた北条泰時となっている。

 仁治元年(1240)、執権泰時のとき、はじめてここに路を造ろうという議定がなされて、翌年、泰時みずからも工事に参加して開発された、というのである。あるいは北条氏に弓を引いた、というより武骨一徹な義盛が、北条氏の奸策にかかって、まんまと滅ぼされていったその和田一族なだけに、一夜で完成した義秀の苦労談も、泰時にすり替えられた、という見方をとれば、その謎はほぐされる。しかしそれを許さなかった世間が、あえて義秀の功をねぎらって呼び馴らしたのが、今の朝比奈峠の名なのかも知れぬ。
 謎を秘めたかつての要路も、今はただ自然を求めて訪れる人と、古跡のあわれを求めにくる人たちだけが往き来する山路と化している。

(104−105頁)


【横浜市教育委員会文化財課 案内板より】

…当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港でした。船で運ばれた各地の物資は、この切り通しを越えて鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増しました。 また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡と見られるものが残されています。鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の<ruby>艮<rt>うしとら</rt></ruby>(鬼門)の守りとして祀られたと伝えられています。鎌倉七口の中、最も高く険阻な路です。

④ 朝夷奈切通から熊野神社へ

*大切通

 この切り通しがかくも深く掘られたのは、江戸時代までは路を切り拓くためであったが、その後、昭和37年(1962)頃までは、石を切り出すためであったのではないかという記述が見られる。(http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_006_3.html
 切り通された崖に大きな仏が刻まれた磨崖仏(まがいぶつ)も、おそらく昭和の頃に彫られたのではないかと言われる。環状4号線朝比奈から鎌倉市十二所に至るバス通りの新金沢街道が開通したのは昭和31年(1956)であるので、それまでこの古道は、「身近な道路として機能していた」ことになる。(https://machimori.main.jp

崖に大きな仏が刻まれている

*熊野神社

…祭神は神話時代の速玉男之命、伊邪那岐命、伊邪那美命の三神。古伝では、頼朝が鎌倉に幕府を開いて早々、朝比奈切通しの開発守護神として、熊野三社大明神を勧請したという。元禄年間に再建、また安永と嘉永年間に修築を加えたと伝えられる。古来、安産守護に霊験あらたかな神として信仰されてきた。朝比奈の鎮守である。

(106頁)

 …室町中期の武将、後に歌人の名もはせた太田道灌(1432〜1486)は、鎌倉扇ヶ谷の屋敷から、この金沢地方(熊野神社も横浜市金沢区)の山に狩りにきて、途中、雨にあう。仕方なく近くの山家に駆け込んで、雨宿りをするのだが、そこであらためてみの(雨具)の借用を申し出た。すると、その家の娘は、八重のヤマブキの一枝を盆にのせて、無言のまま断った。道灌には、この娘の仕草が、にわかには解けなかった、という道灌の愚直を美化した物語がある。
 その話の残る土地のせいか、ここの崖に咲くヤマブキは、一重だが、いくぶん大柄で黄も鮮やかで、それは清々しい。この種は、この周辺の谷間にも多生しているが、八重となると、全く見当たらない。案外、蓑一つだにない(八重は実がつかない。蓑を「実の」にかけた)山家のしずの娘も、一重ならばこそ美しいこのヤマブキを盆にのせ、あとは歌句に答を託していたのかも知れぬ。

(107頁)

⑤ 朝比奈へ抜けて、六浦にある上総介供養塔へ

 熊野神社に入ってきた分岐まで戻り、金沢方面へ向かう。小切通しを抜けると、頭上には横浜横須賀線の高速道路が通る。左手には、江戸期に道路開通に尽力した村人を祀った供養塔や道祖神が並ぶ。坂道を降りると、すぐ住宅街に入る。
 「現在の朝比奈一帯は、昔は相模国鎌倉郡峠村(かまくらぐんとうげむら)といった。明治期の久良岐郡(くらきぐん)への編入を経たのち、朝比奈町と呼ばれるようになったのは横浜市への編入(昭和11年・1936)以降のこと」。

 住宅街の道は環状4号線に行き当たる。この辺りは、「鎌倉時代には六浦津(むつらのつ。六浦湊・むつらみなと)として栄えた地域。…古都鎌倉の港は材木座(ざいもくざ)海岸の沖に防波堤となる和賀江島(わかえじま)の築かれた和賀江津(わかえのつ)があった。しかし外洋に面した和賀江津は波風も荒かった。それゆえ、おだやかな内海で外航船が容易に停泊できる六浦津は重要な外港であった。…江戸時代の六浦は塩田による製塩がおこなわれた。製塩自体は中世・室町時代初期の南北朝時代まで記録を遡ることができる。それゆえ、この道は鎌倉で商われる塩を運ぶ『塩の道』ともいわれた」。(https://machimori.main.jp

 六浦方面へ横浜環状4号線を歩くと左手にひっそりと上総介供養塔がある。しかしこれが実際の墓なのかは、はっきりしない。現在ある供養塔は、昭和59年に地元の有志が復元したものである。

 六浦の港からは東京湾をへて、上総国へ渡ることができる。ここまでのコースを辿ると、十二所に館を構え、六浦に抜ける要路をおさえた上総介が行き来した往時を偲ぶことができよう。と同時に、かつて鎌倉へ入る玄関口としての切通しが、いかに多くの人々の苦労によって開通されたのか、またそこを通って様々な物や人が流通していたか、その様子が目に浮かぶというものだ。

 帰りは「朝比奈」のバス停からバスに乗って鎌倉駅か、金沢八景駅へ出る。

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