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ブルートレインが華やかだった頃の写真をスキャンした

気が付けばヨーロッパに住み、こちらの鉄道を追い掛け続けて10年以上が経過していた。人生で10年以上とは、これはなかなか長い時間だ。ジャーナリストとして色々な原稿やら記事やらを書いてきたが、もちろんそのほとんどはヨーロッパに関すること。日本の鉄道については、ほとんど書いていない。

ただ、別に嫌いだとか、興味がないだとかではない。約50年の人生で、ヨーロッパに10年以上住んでいたからと言っても、まだ残り7割くらいは日本で暮らしているわけで、当然日本の鉄道のことも好きである。詳しいと言えるかどうかは、他人と何かを比較したわけではないので分からないが、クハやモハが何なのかとか、その手の鉄道一般常識くらいは嗜んでいるつもりだ。

そんな私が学生時代だった1990年代、まだ東海道本線にブルートレインが普通に残っていた時代、しかしそろそろ廃止が噂されていた頃だったが、今どきの言葉で言えば「葬式鉄」が大挙して訪れるより前に、先になるべく記録しておこうと、たまに少しだけ早起きをしてブルートレインの撮影へ出掛けていた。ツイッター(X)で何枚かご紹介をしたことがあるが、せっかくなので今一度きちんとご紹介しよう。

九州からやって来た「みずほ」が東京駅へ進入

「みずほ」と言えば、今の子供たちなら新幹線を思い浮かべるだろうが、私たちの世代であれば間違いなく長崎/熊本行きのブルートレインだろう。面白いもので、鉄道界隈では同じ名前でも、世代ごとに思い浮かべる列車が異なるという歴史をずっと繰り返しているように思う。例えば、「つばめ」と言えば日本を代表する東海道本線の超特急と言う人もいれば、私世代では九州の787系特急電車を思い浮かべるだろうし、若い人たちはきっと新幹線だろう。

「はやぶさ」の名前が東北新幹線の列車名に使われると知った時、おそらく私たち世代の大半のファンはがっくり肩を落としたものだが、私達より上の世代の人たちは、「つばめ」が九州特急になったと聞いたとき、同じ思いを感じたのかな、とも思った。

博多まで乗り入れていた頃の「あさかぜ1/4号」

「あさかぜ」が、日本の寝台特急ブルートレインを代表する列車であることに、多くのファンは異論がないと思う。もちろん、博多まで直通する「あさかぜ1/4号」こそが正統派?で、下関止まりだった「あさかぜ2/3号」はどうも途中止まりのローカルというイメージだった。

多摩川橋梁を渡る「あさかぜ1/4号」

その「あさかぜ1/4号」、国鉄分割民営化直前に大幅なアップグレードが行われ、金色の帯を巻いた特別な装いとなった。当時中学生だった私は興奮を抑えきれず、中2の夏休みに友達と九州まで遠征をした。家族と一緒ではない、友達と2人だけで行った初めての長期旅行で、そのトップバッターとして、この「あさかぜ1/4号」に乗車したのだ。星空バーと呼ばれたオシ24 700番台で食べたカレーライス(予算の都合でそれくらいしか食べられなかった)は、今も忘れられない思い出だ。

蒲田付近を通過する「みずほ」

14系寝台車は、電源車がなく、スハネフ14/15の床下に発電用ディーゼルエンジンが搭載された。が、夜は音が気になって眠れない気がして、予約するときは極力避けていた。幸いなことに、14系座席車を含め、スハネフに当たったことはなかった(意図的に避けていたので当たり前だが)が、今にして思えば1度くらいは体験しておくべきだったかも、とは思う。

なお伝え聞いた話だが、予約に関してはスハネフを避けて、先に発電機無しの客車から順番に入れられていた、ということだったが、私がよく利用していた80~90年代の夏休みは、朝のニュース番組で「本日の東京方面寝台列車の空室状況」が流れるほどの人気で、自分で号車を調べて意図的に避けなければ当たる可能性があったのだ。

こちらは「あさかぜ2/3号」

学生時代まで、私は九州へ毎年のように足繁く通い、九州ブルートレインは大阪発着の「あかつき」「なは」「彗星」を含め、全列車に乗車している。ただ九州へ到達しなかった「あさかぜ2/3号」だけは、ついに乗る機会が無かった。せっかくなので、これにも乗っておくべきだった、と今さらちょっと後悔をしている。

初めて乗った日本の夜行列車は「銀河」

私が人生で初めて乗車した日本の夜行列車は、実は大阪行きの急行「銀河」だった。1986年、当時中1だった私は、初めて家族以外の友達同士で、大阪まで1泊旅行へ出掛けた。1泊はもちろん、これも初めての24系25形の急行「銀河」。深夜22時45分過ぎ、ガクンという揺れと共にゆっくりと東京駅を発車、ビルに灯った灯を眺めながら聞くハイケンスのセレナーデは一生忘れないだろうと思う。

14系15形の「みずほ」はどこか特別感があった

そんな私が一番好きだった寝台客車は、意外にも一番地味だった14系15形。寝台特急用の客車の中では最後発の一つで、スハネフ15は微妙に折り妻になっていて、裾の銀帯が途中で切れているところが妙にツボであった。当初は早岐に配属されて、「あかつき」など大阪方面へ運用されており、東京へ顔を出すことはなかったと記憶しているが、途中で転配があって一部が熊本へ移動し、「さくら」や「みずほ」へ入ることがあった。普段見かけない14系15形が見られると、すごく得をした気分になったものだった。

あの当時は、本当にありふれた日常のものばかりだったわけだが、30年も過ぎると完全に過去の風景となってしまった。これから30年先、どんな未来が待ち受けているのだろう。それを見届けるために、健康には気を付けて生きていきたいものだ。

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