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テラハ悲しい。SNSを「監る」のも必要だが、心を「診る」「看る」も増やしたい。それが根本的な予防では?

電車おじさんの話をします。先週、車内で隣になったおじさんが「はあ、もう疲れたなあ」と溜息をついてました。ディスタンスをとっていても、はっきり聞こえるくらいに。まったくの他人ですが心配になりました。「声かけた方がいいのかな」と思っている間におじさんは下車。

どうかお体に気をつけて、と心で祈るばかりです。〝相談する人はいるのかなあ〟。お節介ながら、そんな事を考えました。


最近、オンラインで友達とおしゃべりすることが増えましたが、これはこれでけっこう楽しいし、顔を見るだけでもけっこう元気になりますよね。


この「見る」ですが、勝手に分けて大きく2種類あると思うんです。

「タテ」と「ヨコ」です悪いことをしていないかと監視する目線は「タテの見る」。テラハのようなことがあってSNS使用をルール(法律)化しようとするような方向はこのタテに属するかな。タテが必要な時もあるでしょうが、極端にいくと『1984年』みたいな監視社会になっちゃうかも。

一方で、「ヨコの見る」は、社会の中で互いを見守っていくという目線です。宮代真司さんの次の言葉に一つヒントをもらいました。

世の中には親のいる人もいない人も、さまざまな境遇の人々がいるわけですが、親であれ誰であれ、見る(見られる)存在がどれだけ大事かということです。これは、長く風俗のフィールドワークをしてきた者からすれば、手に取るように明らかな真理です。誰も自分を見てくれないと感じながら育てばダメな存在になります。自分の子どもだけじゃなくて、近所の子どもとか、いろいろな人を見るということはとても大切です。日本の場合、見るという言葉がケア(診る・看る)と同じ意味を含んでいます。日本人は言葉自体の中に、普遍的な摂理を畳み込んでいる。お互いに見ない存在が、社会をダメにしてくのだと思います。

タテが「緊張」なら、ヨコは「安心」です。どっちも必要です。両方がバランスをとることで、人は踏みとどまったり、考え直したりできるのではないでしょうか。

「ヨコの見る」は安心と表現しましたが、でもこれ、実は安心だけではなくて、鬱陶しかったり、お節介だったりするものでもあります。それが嫌で、日本も個人主義の人が増え、「見る」は国家や市場にお任せしようという具合になりました。

今は、地域の共同体のようなものは、だいぶ縮小してきたんだと思いますが、このコロナ禍でもう一度考え直す時に来ているのかもしれないですね。

少なくとも、マスクが不足しているときに、比較的、近所に住む人が「マスクあるからいる?」と言ってくれた時、私はとてもうれしかったです。




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