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KYおよびコミュ障の心理解析

感性が人と少し違う。

突き詰めるとこれが原因なのだと思う。


「いじめを苦に」という人の気持ちが分からない。

そのことを書いた記事がある。

つまるところ私にもいじめられた経験はあるのだがそれが苦にならなかったというお話。そして身近にいじめという事象がほとんどなかったというお話。

世の中にはいじめを苦にしていた人や今現在も苦にしている人、それがトラウマとなって色んな弊害が出ている人が大勢いる。

私はその人たちに寄り添って気持ちを共有することが出来ない。

気持ちを共有できない以上「つらかったね」なんて慰めることも出来ない。

そもそも私の過去において誰かに「つらかったね」と慰めてもらわなければ自身の平穏を保てないような事象に遭遇したことすらない。

この「いじめを苦に」の類似語として「メンタル弱め」がある。

このことも記事にしたことがある。

つまるところ私もメンタルやられたことがあってメニエールになったのだが症状が出たのは一度だけというお話。すぐにメンタルやられた原因を追求しそれを排除することによって長期的に病むことなく終わったというお話。

特にnoteの世界に多いメンタル弱め。

色んな事に傷ついてそのことでメンタル崩してそこから立ち直れない人がすごく沢山いるのだなと思う。

ASDとかPTSDとかHPSとかADHDとか他にも色々あるらしい。

これだけいっぱいあったら誰でもどれかに属するのではないかとすら思うくらい様々なメンタル不調の事象があるが私はどこにも属していないなと思う。

要所要所を切り取れば自身に近いかもというのはなくもないのだがそれが自身のメンタルに影響する全体像として当てはまるかと言われればやはり当てはまらない。

最近は会社でもメンタルヘルス研修というのが必須になっていて毎年受講させられる。それだけ一般社会においてもメンタルを崩す人が増えているのだと思う。

私自身がある意味強靭なメンタルを持っている以上「メンタル弱め」の人に寄り添うのは非常に難しい。


頑張れって言われたい。

世の中「あなたはもう充分頑張った」「頑張りすぎなくていいんだよ」と言われたい人で溢れているようだ。

私は今でも頑張れって言われたい。

そもそも私は「あなたはもう充分頑張った」と言ってもらえるようなことをしたことがないし根がぐうたらなので「頑張りすぎる」経験をしたこともない。

今仮に頑張っていることがあったとして少しそれが暗礁に乗り上げているとしてかけてもらいたい言葉はやっぱり「頑張れ」だ。

もう充分頑張ったと思ったら人に気づかれる前にやめてしまうだろうし頑張りすぎるほど何かに打ち込める性格でもないので今も継続して頑張っていることに対しては少なくとも頑張れという言葉がプレッシャーになったりしない。


気が利かない。

察知して気を利かせて色々してくれる人がいる。

結構な人数いる。

むしろ社会生活を送るうえで気が利かない人より気が利く人の方がはるかに多い印象すらある。

例えば会社で書類を出力していたらたまたま複合機の前を通りかかった人が私の出力した書類をわざわざ運んでくれたりする。

「ありがとう」とお礼を言うくらいの誠実さは私も持ち合わせている。が、その書類には続きがあるのだ。まだ何枚も出力するのだ。

結局最後には自分で取りに行く。更に運んでくれたのと方向を合わせたりする手間まで発生する。

持って来てくれなくてよかったんだよ。これが実は本音。

ランチに行く時ドアを開けて私が出るのを待ってくれたりする。

ドアを開けてくれる人というのは大抵自分はまだ室内にいて私が先に出るのを待っている。

自分で開けたんだから自分が先に出ればいいんだよと思う。ドアを開けてくれたのが会話の最中だったりすると「ありがとう」と言いながら出て再びその人の会話を聞く為に私は振り返らなければいけない。

その人がドアから出て閉めるのを待たなければいけない。

ドア自分で開けて自分で出れるから。

むしろ各自が自分で開けて閉まる前に次の人がドアを持って出てその次の人がと順繰りに出て行った方がよっぽどスマートだと思う。

なので私はいつもドアを開けてくれる人と一緒に外に出る時たまたま自分の方が前にいてもドアを開けて待ったりはしない。

1人しか通れない幅の階段に横並びで3人で到着したとする。

大抵皆誰かが先頭になるのを待っている。

結構な秒数3人が横並びで立ちつくしている。

なぜあのようなことが起こるのか不思議で仕方がない。

ほんの半歩ほど先に到着した人から順番に階段を昇ればよいだけの話だと思うのだが皆その場に立ち止まって誰かが先に行くのを待っているのだ。

こういう時ほぼ確実に私は先頭に立って階段を上る。

階段下で全員で立ちつくしているよりとっとと誰かが先頭に立って階段を上り目的地に到着した方がよくないだろうか。

私以外の人は多分気を利かせて「お先にどうぞ」という神経なのだろうと思うが私にはそもそもその神経が理解出来ない。


私の場合の「人にされて嫌なことは自分もしない」という行為はつまり大多数の人にとってはKYとかコミュ障に定義されるのだろう。

大多数の人にとってはKYやコミュ障の心理ははかれない。

なぜなら彼らが持ち合わせていない感性だから。

ごくごく少数派のKYやコミュ障の心理はこのような構成で成り立っている。


いつも読んでくださってありがとうございます。

生きづらさを感じたことのないおめでたい性分でもあります。

私の経験や考え方が少しでもお役に立てたなら嬉しいです(◍•ᴗ•◍)