八月の青い空とキョウチクトウ

 八月の晴れた日の、眩しい光は、知らないはずの戦争の記憶を思い出させる。空気は熱をふくんでじっとりと重く、蝉の声は途切れることなく、空は気が遠くなるほど青い。庭の木も田んぼも山も、川の土手も、あざやかな緑。日差しは刺すように眩しい。ここはこんなに静かなのに、戦争はまだ続いている。激しさを増している。その行き着く先を私は知っている。夏の光景は、私の中で戦争と直結している。

 それはたぶん、子どもの頃に受けた教育のせいで、折りにふれ目にせざるを得なかった物語の影響を受けている。八月六日は、どうしたって意識してしまう日付だ。その日が近づいてくると、今も、ざわざわと落ち着かない。

 七十五年目の夏が来た。七十五は耳に馴染んだ数字だ。原爆が投下された直後「七十五年は草木も生えない」と言われた、と。それでもその夏のうちに、キョウチクトウの花は咲いた。……と私は思っている。事実なのかどうか、本当のところは知らないのだが、子どもの頃に習った歌では、そう歌っていた。
 キョウチクトウは、通っていた中高一貫校の敷地を囲むように植わっていて、そこで初めて実物を見た。都会ではありふれた木なのか、東京に来てからも彼方此方で見かける。見かけるたびに(キョウチクトウだ)と心の中でつぶやいて、無意識にあの歌を口ずさんでいる。広島の夏に引き戻される。

 広島県の出身とは言え、私が生まれ育ったのは東側の地域で、原爆については、広島市内とは温度差がある。両親もよそから来た人たちだったので、身内に被爆者がいるわけでもない。身近に見聞きしながら、どこか「よそのできごと」だった。それが、広島市内の学校に通い始めてわりとすぐに、自分の中で急に「事実になった瞬間」があった。
 その後、大学、大学院と進み、世の中の役に立たないけれど害にもならないと思って基礎科学を選んだ。そんなつもりはなかったのに、ふたを開けてみれば、放射線を専門に扱う分野だった。気付いたときは、少し複雑な気分だった。研究者をあきらめて就職した先も、突きつめて行くと軍事・防衛産業と繋がっている。今はまだそういう世界なのだと、思い知る機会は多い。

 いつまで忘れずにいられるだろうか。
 毎年のように、TV中継がまだ続いていることにひそかに安堵のため息をつく。この日が近づくと、ざわざわと落ち着かないのは、私自身が忘れてしまわないように、忘れてしまいたくないので、必死に意識しようとするからなのかもしれない。

 八月六日、平和への祈り。
 私にとって、ごく個人的な、象徴的な日。

 

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