見出し画像

本について語る資格を持つ

こんばんは。しびれる古本屋でございます。

さびさの更新となります。以前こちらのnoteで紹介させていただきましたとおり、ただいま本の執筆に挑戦しています。僕はあれやこれや同時できるタイプではないので、スイッチが入ってしまった以上、そちらを優先しております。

そうはいっても読書は毎日つづけています。いそがしくとも、あさは早起きして長編の小説をすこしづつ読む。そして本の執筆もする。ひるから店を開け、本を読み、閉店後にふたたび本の執筆にあたる。そういうお金のかからない生活を繰り返しております。

おかげで今朝も長編の古典作品を読みあげることができました。むかしの本は字が小さいので読みにくく苦労しましたが、なんとかなんとか。

そして世界的に有名な古典の名作を読んだということで、「つひに僕もその本について語る資格を得た」とおもいました。

これはちいさな出来事ですが、僕にとってはおおきな喜びです。

古典作品を好んで読むような優秀な人と、本について語ることができるようになったのですから。もちろん著名な学者さんのように、本を紹介してもいいかもしれません。

僕のような中学校からほぼほぼ不登校だった人間でも、大学にいっていない人間でも、文学について語る権利を得ることができるなら、ひとりでコツコツと読書を続けることは、なんて素晴らしいことだろうとおもいます。

しかし、ざんねんながら僕はリアルの世界で文学について語る友達はいません。そういえばネットの友達もいませんでした。また、それを発表する場所もありません。ただただ読んでいるだけですね。

だからといって読書の経験に意味がないかと考えれば、それは絶対にない。逆にひとに話さないからこそ、話そうと思えばいつでも話せるという心の余裕がいまの僕にはあります。

そして知識や経験というのは1つや2つでは価値が希薄なままですが、ある一定の量をこなすことによって、とつぜん爆発的に成果があがることを僕は経験として知っています。殻を破ったとか、突き抜けたと表される、あの感覚です。

とうぜん僕にはまだ読書でその感覚はありませんが、このまま少しずつ読書を続けていき、古典的名作と格闘することによって、僕の読書力が鍛えられると、なにかおきそうな気がします。

もしかしたら有名な先生方も、地道にそういった臨界点を突破してきたのかもしれませんね。

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?