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郷土愛に目覚める時|自己紹介

初めまして。愛知の酒と食をコンテンツにしたガイド育成事業とツアーづくりをしようとしている Stay Aicih 酒任(しゅにん)の吉田さき子です。
Stay Aichi では、国際きき酒師として酒蔵めぐりのガイドやツアー企画、ガイドのご紹介を主に担当していきます。
長らく「愛知・発酵・観光」のミックスこそが発酵・醸造産業の未来を明るくすると信じてきました。改めてここで自己紹介させてください。

思いを共にする食任・葛山さんの自己紹介はこちら


異文化交流から海外への憧れへ

私は、熱田神宮のお膝元名古屋市熱田区で6人家族の長女として生まれ育ちました。物心つく頃から母に連れられて行く英会話スクールや異文化交流イベントが楽しくて、言語が違う人達の生活や文化に興味を持つようになりました。

中学1年の夏休み、人生で始めての海外に出ます。名古屋国際センターが企画するホームステイプログラムに参加し、アメリカで3週間を過ごしました。ところが英語をほとんど理解できず、もちろん話すのも片言だったため、ホストファミリーとのコミュニケーションにかなり苦労し、悔しさと共に帰国しました。

この悔しさから、外国の方と意志疎通をするためにはもっとしっかり言語を身に付けなければ、と思うように。そこで、大学は県内の外国語学部英米学科の夜間主コースへ進学しました。勤労学生や社会人に解放している夜間主コースは、
・学費が昼間コースの半額だから家への金銭的負担も軽減できる
・夜間でも卒業単位を満たしていれば4年で卒業できる
・昼間はしっかり働けるので貯金もできる
つまり、いつか海外へ出るための資金を稼ぎながら学びの質も担保でき、昼間と同じ期間で卒業できる、という、私にとっては一石三鳥の選択でした。

こうして、日中は高校から始めた酒屋のレジ打ちアルバイト、夜は大学の授業を毎週月曜から土曜まで6日間・2コマみっちり、日曜日もほぼアルバイトに明け暮れる、という休みなしの生活が始まりました。当初、意気揚々と英語を学び始めたのもつかの間、実際は働くか授業か寝るか、だったので宿題にしっかり取り組む時間は蔑ろになり、成績はさほど良くありませんでした。

とはいえ、英語を好きな気持ちは変わりませんでした。そのおかげで何とか4年で必要単位の取得までこぎつけ、大学卒業時にはコツコツ貯めた貯金を使ってオーストラリアへ短期の語学&ワイン留学を実現。この時は中1の時よりもコミュニケーションが取れるようになっていました。やはり海外での生活は言語を理解できるようになるほど楽しさも増えるし、人とのつながりも知識の深化も円滑になるんだ、と再認識するのでした。

酒販店からカナダ客室乗務員へ

こうして大学卒業後、就職難の時代まっただ中でしたが、運よくアルバイト先である酒販店に拾ってもらい就職します。仕事では英語を使うことがほぼゼロ。いつしか語学を続けるよりも仕事に必要なスキルを習得する事に意欲を燃やすようになりました。その1つとして、お客様がどうすれば満足されるのか、接客のホスピタリティーについて深く考えるようになりました。

時間があるときは本屋に行き、接客の本を立ち読みしたり購入して自身の対人コミュニケーションを磨こうと努力しました。ただ、そうした本を読み進めるほど、町の酒屋に求められる接客と、いわゆるホテルやエアラインの接客との違いを感じるようになります。3年ほど経つ頃には、自身のホスピタリティーの質をもっと向上させるにはどうしたら良いか、を思い悩むようになっていました。

自問を繰り返していたある日、ふと「元々海外で生活をしたいと思っていたよね」「英語をもっと使える環境に身を置きたかったよね」「それならば、海外のホテル業界か航空業界を目指した方がよいのでは?」という眠っていた願望が湧き出しました。思い立ったら我慢できません。海外への留学や仕事のチャンスを探し、留学ジャーナルという雑誌をめくっていたところ「カナダで客室乗務員を経験」という記事が目に飛び込んできました。「これだ!」

ただ、よく見ると日本国内での選抜試験にパスしないといけないことが判明。語学から離れて久しかったので、学び直しのために通訳者を多く輩出するスクールに通って英語力向上に努めました。その結果、選抜試験に運良く合格。こうして酒販店を退職し、新天地での希望を胸にカナダへ渡るのでした。

カナダではロッキー山脈が見える内陸の街、アルバータ州のエドモントンをベースに、極北路線に乗務しました。極北とはカナダでもバンクーバーやトロントと違ってさらに北の寒いエリア。北極に近くなり、昔からイヌイットの人達が多く暮らしています。特に北緯60度に位置するイエローナイフという町は、世界で最もオーロラが見える確率が高いと言われ、冬場は日本からも多くの観光客がオーロラを見に来る観光地。そのため、エドモントンーイエローナイフ線に私たち日本人が乗務する事は、航空会社にとっても観光客にとっても意味があったのです。

共にフライとしたクルーと共に 後ろに見えるのが搭乗機

ある日、いつも通り飛行機の入り口で搭乗のお出迎えをしていると、団体の日本人旅行客が乗り込んできました。そこで「ハロー」ではなく「こんにちは」とご挨拶すると目の前の女性がパっと顔を上げ、目を見開いてこちらを見て仰ったのです。

「わ!あなた日本の方?日本語わかる人がいて安心だわー」

この時、「この路線で乗務してよかった。やはり、こんな風に言葉が通じる事でストレスが軽減され安堵感を持つ人のためにも頑張ろう」と思うのでした。

燃え尽き症候群でニート生活

ところが、乗務に慣れるにつれ悩む事も多くなりました。私は日本の航空路線に於けるホスピタリティーの高さを想像してカナダに来ました。ところが、一緒に働く現地の同僚やベテラン乗務員達は、乗客に笑顔を見せるもののあくびは隠さない、荷物は足で動かす、乗客への断定的口調も辞さず、乗務員同士のお喋りも乗客の前でお構い無し、など自身が想像するホスピタリティー像とはかけはなれたものでした。

今思えば、客室乗務員の職務は保安要員として乗客を安全に目的地まで送り届ける事であり、彼らは基本的役割を果たしていただけにすぎません。ですが私は日本の航空会社のホスピタリティーが世界共通だと思い込んでおり、勝手に落胆していただけなのです。それでも当時は、夢を叶えに行ったカナダで自身の希望を寸断されてしまったと思い、インターン期間終了後、苦悶の思いを抱えて日本へ帰国したのでした。

何が正しいホスピタリティーなのか?そもそもホスピタリティー自体が必要なのか?そんな疑念に苛まれ続けた私は、何も手につかない期間を過ごします。仕事に対して意欲がわかず、ふらふらと短発アルバイトをする、いわゆるニート状態の日々。今思えば、燃え尽き症候群だったのです。

その後1年半ほどニートをしながら貯金も尽きかけたある日、ふと元働いていた酒販店を訪ねました。そこで、ニートの状態を見かねたのか、復職しないかと誘ってもらいます。勝手知ったる職場ならば、と再就職させてもらうことにしました。復職後、あまり接客に前向きになれない自分を感じつつも、徐々に仕事への意欲を取り戻していきました。

実は苦手なコミュニケーション

実は、私には苦手なことがありました。それは、見知らぬ方に電話をかけること。事前に話すことをスクリプトとして書き出してからでないと電話ができず、1本の電話をかける前に15分も20分もかける始末でした。初めての方とアポを取れなければ商品開発も始まりません。ですが、苦手を無くす方法も見つからず、電話も毎回無駄に時間をかけるばかりで成果につながらず困っていました。

このままではいけない、と思っていたところに「名古屋で新しく話し方教室が開講される」という情報を得ました。「これだ!」。苦手を克服するためには、やらざるを得ない環境に身を置くしかない、と藁にもすがる思いで通う事にしたのです。これが大正解でした。素晴らしい講師と講座のおかげで苦手を徐々に克服した私は、受講修了後も話し方教室のアシスタントであるグループアドバイザーに立候補。先生に了承いただけたので、新規受講生のサポートや講座運営の手伝いをしながら自身の場数を増やす努力も重ね、スピーチメソッドの深化に努めました。

グループアドバイザーとしてデモンストレーション

こうして人前で話したり、新しい場に出向くことに抵抗がなくなり、様々な講習や交流会に出向く勇気が持てるようになったのです。これは、仕事をする上で電話を掛ける事がスムーズになっただけでなく、人脈作りや情報収集力の向上にも大いに役立ちました。
今、人前で話したりガイドする際に緊張しなくなったのは、この時の経験のおかげです。まさに人生の転機の1つでした。

英語でも説明できる利き酒師になろう

実は、酒販店に勤めるようになって最初に興味を持ったのはワインでした。大学卒業時にオーストラリアでワインを学んだのもそのためで、ワインが分かるってちょっとおしゃれだな、と思っていたのです。その後もよくワイン本を購入しては異国情緒に没頭する事を楽しんでいました。

当時、上司はすでにソムリエの資格を取得しており、お客様からも信頼されているのを見ていました。私も何か資格を取った方がお客様に信頼してもらえるかもしれない。ただ、会社としてはすでにソムリエがいます。であれば、それ以外のジャンルの方が店としてお客様のお役に立てるのではないか?と考えました。

その結果、日本酒の資格者はまだ社内にいないから日本酒にしよう!と思い当たり、きき酒師を取得しました。その後、時折来店される外国人のお客様にもきちんとご説明できるようになりたいと思い、国際きき酒師を取得しました。そのおかげか、ある日、大学の留学生に向けた英語版日本酒講座の講師に呼んでいただき、少しずつ表現力を磨く機会を増やしていく機会にも恵まれました。

健康を失って知った発酵食の力

その後も精力的に働いていたのですが、30代も後半に差し掛かったころ受けた健康診断で子宮頸がん一歩手前の診断がくだります。「え?うそでしょう?」。ガンという言葉から死を連想したのは言うまでもありません。まさか自分が…という思いで頭が真っ白になりました。担当医師からは切除手術を進められましたが、どうしても体にメスを入れることを受け入れられませんでした。

そこで、なんとか手術以外で治す方法を試したい!と一念発起し、様々な文献やがんサバイバーの方たちの情報などを調べていきました。その結果、様々な情報から回復のための共通項が見えてきたのです。
例えば、
・冷えてる体をがんは好むから体温を上げよう
・体質はこれまでの積み重ねだから習慣を変えれば改善できる
・腸を整える事が重要
・腸には発酵食が有効手段になりそうだ
つまり、がん細胞が居心地の悪い体作りをすれば良い、という結論に達したのです。(あくまで個人の意見です)

当時は、今ほど発酵という言葉がメジャーではありません。発酵ってそもそも何なんだろう?とにかく学ぶ場を見つけて、自分の体で試してみよう!医療はダメだった時の最終手段にしよう。
そう腹をくくり、発酵について学ぶ場を見つけては自分の生活に取り入れる日々がスタートしたのでした。

愛知は発酵のメッカだった

学びを進めるにつれ、発酵と微生物と人間の連携など、これまで知らなかったけれども昔からあった日本の知恵や技術が見えてきました。これは面白すぎる!

ある日、講習先の金沢でしょうゆの味比べをしました。ずらりと並んだ醤油の瓶。その中の1つを講師がこう紹介したのです。
「この白しょうゆは北陸ではなかなか売ってるところがないんです。今回もわざわざ取り寄せんたんですよ」
と言って持ち上げられた瓶に目をやると「足助仕込み三河しろたまり」と書いてあるのです。あれ?足助って私の地元の愛知県じゃん。しかもわりとよく見たことあるし。今思えば、まさしく灯台下暗しな発見でした。

これをきっかけに、愛知県の発酵を探求する事に目覚めます。さまざまな専門家が登壇するセミナーやイベントなどに出向いては情報収集する中で「もしや、愛知県こそ発酵のメッカなのでは?」とようやく気が付いたのです。

こうして愛知県内の蔵元へ積極的に足を運ぶようになりました。生産者の方たちからお話を聞かせてもらったり、現場を見学させてもらう事で、蔵の事だけでなく周辺の環境や歴史も知ることができます。すると、これまで点と点だった情報が線でつながって、「だからこその今なんだ」「この製品がここまで来るのにそんな歴史があったんだ」と合点がいくのです。合点がいくとその製品が欲しくなり、ついついお土産が増えるのでした(笑)

様々な蔵を訪問する一方で、もう一つ気が付いた事がありました。それは発酵や醸造の産業はやはり衰退産業だという事。こんなに手間ひまをかけ、こだわり抜いているのに、売れないのはなぜだろう?造り手が減っていくのはなぜなのだろう?

食文化喪失の危機にできることは?

思えば近年、多くの人々がパン食を日常とするように、日常的に食の欧米化が進んでいます。それ自体が悪いことだとは思いません。かくいう私もその一人でしたし、今でもパン食は好きです。和食は流行おくれの古めかしい存在とも感じていました。しかし、発酵食品の素晴らしさや価値を知る機会を得たことから、生産者が減少している現状を目の当たりにし、これは好みの変化の問題だけでなく、日本で受け継がれてきた食文化の損失であり、郷土が持つアイデンティティーの喪失につながる重大な危機だと思うようになりました。

でも、食を守るといったって、需要がなければ供給は必要ない。だとしたら、需要喚起するためにできる事はなんだろう?

愛知と発酵と旅人との懸け橋に

その問いを悶々と考え続ける中で、自身の旅や立ち寄り先での行動を思い返していました。そう、つい「何かお土産に持って帰りたい」というあの衝動。背景にあるストーリーを知ったからこそ、お土産を渡すときに「これはこんな生産者の方がこんな思いで造っててね、、」と語ってしまうその行動。ただの観光地ではそこまで思わない。けれど、背景にある人やストーリーは訪問者の心を揺り動かし、製品への愛着まで生み出してしまう。これこそ旅の力なのではないか?そこに価値を伝えてくれるガイドがいたら、旅の満足度は格段に上がる。言語の壁が超えられたらなおさら・・・。

そうか、愛知と発酵と旅人との懸け橋が必要だったんだ!

メッセナゴヤの会場でプレゼンテーション

それからは、酒販店勤務の休みを利用して、名古屋市や愛知県が主催する起業支援プログラムに参加したり、愛知県のプロフェッショナルガイド育成講座を修了したり、自ら企画した食にまつわるガイドツアーを催行したり、プロのガイドの指導を受けるなどして、懸け橋役であるガイドを身をもって実践する機会を増やしました。インターネットラジオで番組を持ち、発酵を発信する事もしてきました。

日本酒を飲みながらラジオ収録
名古屋市熱田区のガイドツアー

ですが、やればやるほど時間が足りない。片手間では無理だ、という思いが募り、とうとう延べ27年勤めた酒販店を退職。
ステイあいちを立ち上げるに至りました。

最後に:当たり前を分かち合いたい

気が付けば、ずいぶん遠回りな人生です。でも、その寄り道のおかげで、愛知で脈々と受け継がれてきた食文化を知り、そこに関わる情熱的な人々に出会い、旅が果たす役割を再認識することができました。

カナダに渡航するとき、母から日本最後の夜に何を食べたい?と聞かれました。そこで母の手料理の中でも大好きな「さばの味噌煮」をお願いしました。愛知県らしく茶色い豆味噌の味噌だれがたっぷり浸み込んださばと、炊き立ての白ご飯と赤だしのお味噌汁。そして父と日本酒で乾杯しました。
「気を付けて、楽しんでおいで」
心に響くその言葉が胸に沁み、こみ上げる涙をこらえて、お酒と一緒にぐっと飲みこみました。旅立ちのために最高のごちそうを用意してくれた両親に今でも感謝しています。

食は人生の節目を彩る大切な存在だと思っています。特別高価なお料理やお酒でなくても、ここ愛知に当たり前にあるものが誰かの一生の思い出になることもある。そんな素朴だけど心に残る感動を、これから出会う人たちとも分かち合って行きたい。それこそが、ステイあいちで実現したい想いです。


Stay Aichiは、愛知の発酵と酒をコンテンツにした〈ツアーガイド育成〉と和食のルーツを巡る旅〈ルーツアー〉企画をしています。
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