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東日本大震災を通して過ちに学び、社会構造の転換を

はじめに

 この13年間、東北には行きたかったのですが、一人でぶらりと行く余裕もなく、また、行こうという勇気がなかった、というのが正直なところです。というのは、現地でも話しましたが、私は学生時代に、運転免許の合宿教習で岩手県に行きました。とてもやさしい皆さんで、気仙沼や猊鼻渓や平泉まで先生に案内してもらい、それがよい思い出でした。
 一方で、福島県出身の友人が、言葉の訛りで馬鹿にされるといって、ずいぶんコンプレックスを抱えていました。大阪人のようにペラペラ軽薄にしゃべらない、おだやかで朴訥で多くを語らない、そういう東北人気質。
 そして、何よりも社会構造の問題としての過疎化、原発の押しつけがある中で、あの大震災。総合的に考えれば考えるほどあまりにも気の毒で、かける言葉も見つからず、都会人としての責任も感じて、この間はずっとしんどかったです。
 今回は、ちょうど退職間際の時期に箕面市人権啓発推進協議会がツアー企画されたので、一念発起して申込をしました。

東北そして能登半島のイメージ

 実は、私の高校の修学旅行での行き先も南東北でした。かなり珍しかったと思います。遊び盛りの時期なので、周囲は「何もあらへん」とブーブー言っていましたが、私は「何もない」と言われる自然環境を楽しみ、喧噪のない中で少数の友人と夜を徹して議論することができました。
 そして、修学旅行当時はまだ理解していませんでしたが、翌年に習った日本史の授業を契機として、東北や「裏日本」には何もないどころか、豊かな歴史的蓄積があるのだと知りました。その先生からは、教科書に載っていない網野史観をはじめとして、民俗学を含めた知見も教えられました。
 大和王権があり、天皇が長くいた京都のある関西、そして江戸期以降は関東が、日本の中心だと思われていますが、それは支配者目線の「一面」でしかありません。京都や江戸の権力に拮抗する、蝦夷や奥州藤原氏や伊達氏らが東北にはいましたし、能登半島も、中国・朝鮮に対しては「表日本」だったし、北前船のような交易が盛んな地域でした。
 そういう歴史的蓄積のある地域が、資本主義の進行と共に不当に扱われ始め、やがて地域振興の名目で原発を誘致させられる。そして、案の定、震災が起こり、建物倒壊や津波被害のみならず、被曝地域となってしまう。出身者でない私ですら、やりきれない気持ちでいっぱいです。

今回のテーマ

 まず、根本的に、東北の被災地の皆さんに向けて、私たちの活動のどこがどう役に立つのか?という問いが、自分の中にありました。
 そこで、ボランティア活動も含め「誰が何をしたらよいのか」という基本的なところを、報道とは別に自分の目で見て考える、ということを今回のテーマにしようと思いました。

初日(遠野市、大槌町、釜石市・宝来館)

 さて、前置きが長くなりましたが、レポートに入ります
 初日の遠野市では、薪ストーブなどスタンドアローンの暖房器具や自家発電機の有用性を再認識し、震災前に沿岸部応援の協定を結ばれていたことに先見の明を感じました。
 ただ、箕面市の防災訓練の時も「ああ、これは軍事訓練だな…」と感じたのですが、軍事と防災の線引きは意識する必要があると思います。自衛隊が災害救助隊だったらよいのですが。
 大槌町は教育委員会が真っ当だと思いました。総合学習として「ふるさと科」があり、子どものストレスマネージメントにもなっているとのこと。高校には「地域探究科」があるそうです。
 私は高校1年のとき、箕面市桜井地区の商業活性化について調査した経験がありますが、いま箕面市では、学力向上やIT化だけでなく、地域のこと、まちづくりについての学びに、果たしてどれだけ注力されているでしょうか。
 宝来館の女将さんのお話。決して上手な語り口ではないところが、かえって心に響き、涙が出ました。
 陸前高田とここ根浜(ねっぱま、アイヌ語)は岩手県で最長の砂浜だったが、今は堤防ができてしまった。漂着物が集積して、それに関するボランティア活動もある、とのこと。
 当日は旅館からいったん避難できたが、津波が来るまでにしばらく時間があるという経験知があったがために、その間に動いてしまった者は亡くなった。津波は一昼夜、間欠的に続いた。
 のちに、旅館裏の笹山を避難道にするため、車いすでも登れるように整備した。イベントでそこの山歩きを企画して、けもの道のようにならないよう、歩道を維持しており、これらをすべて民間でやっている、とのこと。

中日(釜石市:鵜住居地区防災センター、いのちをつなぐ未来館)

 翌日は、釜石市の鵜住居地区「防災センター」の教訓を学びました。ここは2010年に完成したばかりの、市役所支所と消防署。避難訓練もここで行い、防災施設だと思われていた、そしてみんな自分は防災意識が高いと思い込んでいた。しかし、そこは2階から屋上に上がることのできない施設だった。疑うことが必要だった、と反省の弁が展示されていました。
 次に、実際の避難経路を案内していただいた川崎杏樹さん(当時、中学生)は、釜石市の「いのちをつなぐ未来館」の指定管理者=かまいしDMC社員のガイドさん。自分の経験から防災教育が子どもを救うことを強調されました。国語にも理科にも災害の話が出てきて総合的に習えたこと、防災訓練では時速40キロ以上になる津波を想定し、先生の車と一緒にかけっこをして楽しく学べた、とのことです。
 津波のとき「黒い海が迫ってきた」と聞いて、自然が人間に復讐するがごときジブリの映画を私は思い出しました。これまで海を写真撮影するのが好きでしたが、今回はあまり撮影していません、黒い海と聞いてさらに怖くなりました。

最終日(気仙沼市:ヤマヨ水産、南郷住宅、石巻市立大川小学校・門脇小学校)

 最終日は、ヤマヨ水産のカキ養殖場が見られなかったのは残念でした。「おかえりモネ」の舞台だったとはつゆ知らず、テレビドラマも見ておくべきだなぁと後悔しました。後でサイトを見たのですが、オーナー制度の案内にしても、原発のリスクを含めて誠実に書かれており、感銘を受けました。
 でも、カキ養殖場の代わりに、急遽アポをとっていただいて、気仙沼市南郷地区の災害公営住宅で自治会長さんとお会いすることができました。災害を機に廃校になった敷地に、集会所と住宅3棟155戸が建てられていました。
 宮城県「コミュニティ再生」補助金として自治会に対してお茶代が出るのも3~5年間だけ、抽選により順次入居するため、いろいろな地域から来られており、孤立しやすい状況だとのこと。
 高齢化により施設に入られて空き家になった部屋も出ており、福祉事務所や社会福祉協議会は機能しているのか、高齢者は自らは相談に来ない、だから見守りのアウトリーチが必要だが、自治会のないところもある、とのこと。
 最後に、やはり一番、目に焼き付いたのが、石巻市立大川小学校と門脇小学校の震災遺構でした。周知のとおり大川小学校では、子どもたちが多数亡くなり、裁判にもなりました。一方、門脇小学校では建物は焼けてしまいましたが、全員避難して無事、という対照的な遺構でした。
 大川小学校でたまたま箕面自由学園の皆さんと一緒になり、そのガイドをされていた方が、ここで娘さんを亡くされたようで、話しながら怒っておられました。指定管理者のガイドさんなのですが、その施設を出来が悪いと批判しているのが印象的でした。

帰宅して「うーん」と考えてみる

 帰宅して、自ら撮影したアルバムを見ても、ただ単に感慨に耽ることができないような複雑な思いがあります。
 やはり私は基本的に、原発震災なので天災+人災だと思います。今でも被曝や風評被害の影響を受けている方々がたくさんいるほか、低線量被曝の解釈、賠償金の有無、汚染水の評価をめぐっても、住民の分断が起きています。では、それは「誰による」災害で、「誰が」責任を負うべきかというと、(これをいうのはつらいですが)社会構造的には、私たち都市住民だと思うのです。
 そして、具体的に「何を」すべきか考えるときには、被災者個人の救済という問題と、原発の立地に象徴される地方の疲弊や、都市住民による収奪構造という問題を、分けて考えないといけません。

ヴァルネラビリティ(脆弱性)とレジリエンス(回復力)

 前者について私たちができることは、このような企画を通じて心をつなぐ、活動の輪を広げることかと思います。
 今回のツアーを通して確固たる思いをもったのは、「弱い立場にあるひとからは、ひとが生きていく上での強さを学べる」ということです。
 「社会的弱者」とか「マイノリティ」という言葉を安易に使いたくないので、もってまわった言い回しになりましたが、私は市役所生活35年のうち23年を人権担当に勤めて、部落出身者、障害者、外国人、さまざまな人々からお話を聞きました。
 今回も、重い話、しんどい話が多い中で、水底に着くと共に反転するように、向かい風を受けながらもじりじりと前進するように、そういう強さを体現する姿にふれ、心打たれるものがありました。

縮小社会に向けて

 後者については、短期的には、観光でも何でも消費をして、現地にお金を循環させること、経済効果を生むことが必要だと思います。
 ただ、長期的には、現地でも少し話しましたが、持続可能であるために、日本全体が「縮小社会」に向けてどう軟着陸するかが肝心だと思います。それには、稼働人口が減っても維持できるコミュニティづくりや、原発の電力に頼らない産業構造への移行が喫緊の課題です。そして、先日亡くなったヨハン・ガルトゥングがいったように、現在のような「構造的暴力」は平和のためにも排除されるべきです。

復興支援の検証

 ここで、東北の復興支援を検証するならば、そもそもの過疎が原因か、震災が原因なのかの見極めがつかない問題がある中で、復興に乗じて為政者がその意図を押し通そうとすることが往々にしてあると思います。私たちはそれを見抜く力量を身につけなくてはなりません。
 古くは阪神大震災直後、兵庫県知事の「私の提言」という新聞コラムに私は憤激しました。この機に神戸空港の開港を実現しよう、という内容です。彼は晩年に美化されましたが、被災者の気持ちを顧みないそのコラムを今も私は許せません。
 最近のコロナ禍でも、トンチンカンな施策・事業が多数ありました。国は地方自治体に補助金をジャブジャブ使わせましたが、コロナ対策としては大いに疑問がありました。
 大槌町の学校なども、立派で美しい校舎なのは結構だと思うのですが、少子化で昨年度は37人しか子どもが生まれなかったとか。役場は懸命に少子化対策されていますが、2校あるのに子どもが1クラス程度しかいない。このように復興事業が身の丈に合わなくなっている事例を随所に見ました。今後に向けての大きな検討材料だと思います。

 以上について、まだ私の中できっちり整理がついたわけではありませんが、これまでに自分が考えていた大きな方向性については、ツアーを通して自信の裏打ちを得られたように感じています。(2024年4月18日)