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音楽家の「売れたい!」は「社会への片思い」。売れた先にある、快感と落とし穴について

いつも神編集をしてくれてる葛原信太郎くんがTwitterでこんな記事をシェアしてた。

バンド「トリプルファイヤー」の吉田靖直さんが持つ違和感 “売れたほうが価値が高い” という尺度に対しての率直な思いが綴られている。

「売れたほうが価値が高い」という尺度は世の中に確実に存在している。

売れているミュージシャンがインタビューで「好きなことをやっていれば売れなくてもいい、とは言いたくなかった」と発言すれば、それを批判する人はいない。しかしなぜ売れなければならないのか。売れたいと思うのか。そのへんが具体的に語られることはあまりない。

売れることは金銭にも直結する。理想でメシは食えない。誰にも求められずお金が発生していなければ、それは「仕事」ではなく定義的には「趣味」になってしまうだろう。自分のやっていることを趣味ではないと言いたい。なんで趣味じゃダメなのか。まあ、学生時代から何十回も友達と駄弁ってきたような、なかなか結論の出ない話だ。

まさに自分も折々で、この問題を発信・議論してきた。しかし、いつも “不完全燃焼” で終わってしまう感覚がある。なぜだろうか。おそらく「なぜ売れなければならないのか、売れたいと思うのか」について、きちんと向き合ってこなかったからだと思う。

自分にも「売れたい」と思ったことがあった。「売れる」ことが目標の一つになっていることがあった。

でも、今は違う。ゼロになったとは言わないが「売れたい」という気持ちはほとんどなくなってしまった。

今と昔で何が違うのか。最近までは、漠然と「人間的な成長」くらいにしか考えていなかった。

しかし最近、コロナ禍で資本主義社会が持つ弊害について考えさせられたり、自分の音楽活動について見直しを迫られたり、個々の特性と社会の関係について考えさせられたりしてるうちに見えてきたことがある。

「自分の存在価値」を社会の中で見出そうとすることが、音楽活動に大きな影響を与える、さらには「売れたい」という気持ちにも関係しているのだ。

得意なことが、社会的な評価に直結しないことは多々ある

「勉強ができる子どもは、将来も有望」

大抵の人はそう思うだろう。なぜなら、勉強ができるという「個性」は、学歴社会においての高価値と直接つながるからだ

これが音楽が得意な子の場合は?音楽は将来の生活の安定をもたらしたり、社会的名誉を得られたりするイメージはあまりない。きっと勉強できる子と同様に「将来は有望だろう」と考える人は少数だ。

僕は小さい頃から音楽に対して特別な愛着を持っていて、自分は音楽が一番得意という自負があった。「自分の音楽へのこだわり」と「他の人の音楽との接し方」に強烈な隔たりがあることを意識しながら幼少期を送った。

同様に、自分の「生きがい」や、「これがめちゃめちゃ得意」と感じることを子どものころから見つけていて、それがたまたま「勉強以外」だった人はたくさんいるはずだ。

でも、ここまで自分の個性を自覚していた僕でも、音楽で生活ができるわけがないと思っていた。

大学を卒業して、会社員になり「社会の中での価値ある人間」になることに17年も挑戦した。正直、自分の特徴が最大限に活かせる場所はここではないと、気づいていたけど。

「自分が得意なことがたまたま音楽だっただけなのに…。得意なことがコミュニケーショや数字管理じゃなかっただけなのに…」


「売れたい」気持ちの正体(僕の場合)

30代半ばのころ、自分の音楽が世界中で聞いてもらえるようになった。そうなるために、特別な「何か」をしたわけじゃない。音楽は10代からあいもかわらず作り続けていたわけだし。変わったのは環境だ。インターネットによって、無名の音楽家の音楽が広がりやすくなったこと。自分の音楽性が時代とたまたま一致したことぐらい。

しかし、音楽による収入やフォロワーがどんどん増えていき、僕は完全に舞い上がった。「売れる」ことに夢中になった。何がそうさせたのか。

音楽には正解がない。音楽への評価も時代によって変わったり、曖昧だ。何かしらの「基準」があって「評価」される環境で生まれ育った僕たちにとって、評価や基準がないと、社会との距離が離れてしまう。どうにかして評価軸を持とうとする。その評価軸として身近なことこそが「お金」や「フォロワー」だ。

「社会的価値がないと思っていた自分の才能や存在をついに証明できた!」

売れることは「希望」だった。それは表現し難いほどの快感だ。

成功率が低いければ低いほど、成功したときに、今まで苦汁を舐めてきた人生を取り戻そうとする。結果的には「売れてなんぼ」という感覚によりつよく浸る。

アーティストの「売れたい」という気持ちには、純粋に金持ちへの憧れ以上のものがある。社会で認められにくい存在を認めてもらいたい。言うなれば「社会に対する片想い」のような感覚が大きいのではないか。

恋人ができないと悩んでいた人が、できた途端にみんなに対して優越感を持つように、一度でも「売れた人」はその優越感を手放させない。

僕も例に漏れず、その優越感にしばらく浸った。今まで苦しかった分、自分の才能(存在価値)が認められている感覚にしがみついた。しかし、その先にはめちゃくちゃつらい道が待っていた。

「売れる」という概念には問題がある。「売れる」という状態に慣れてしまうこと。さらに、「売れる」が進めば進むほど、自分個人の力よりも周りの人間や環境など外からの影響力が強くなること。

「自分の才能・価値が社会に認められた」という感覚を求めてもっと「売れる」を追求するのに、追求すればするほど「世界に対する自分の影響力が小さくなっていく」という矛盾にぶつかっていった。

「売れたい」の魔法が解けた時

そんなラットレースに終止符を打つきっかけは2017年グラミー賞にノミネートされたことだった。

それまで「売れる」ということが、唯一の社会的な価値を証明するものだったが、ヒットからほど遠い無名の楽曲が、その楽曲性を社会的な評価団体から評価された。

この事実によって、音楽家、雑に言うならば「わけがわからないことをやってる人」という社会の中での存在感の薄さに対するコンプレックスを払拭できたのだ。少なくとも「売れる」ことでコンプレックスを払拭する必要がなくなった。

それでもなお「売れる」ことを追求するとしたら、何を得れるのだろうか。

人がなぜそれに惹かれるのか合理的に説明がつかないような、まったく資本主義向きじゃない「アート」を、資本主義社会で認めさせることができた時の「万能感」とか「選ばれし者感」とか、そんなもののような気がした。

でも、その感覚は長くは続かないだろう。長くやればわかる。長く売れ続けるということは、その人個人の能力だけによるものではないからだ。

「売れたい」という気持ち自体は自然なプロセス。問題は...

「売れたい」と思うことは、社会との隔たりを感じて生きてきた人間にとっては当然の願いであり、コンプレックスを打開するうえで必要なプロセスなのかもしれない。

しかし、度が過ぎると「選ばれし者感」に支配されがちになる、というリスクを僕は指摘しておきたい。世間はそういう人に「特別な生命力」を見出し、崇める傾向にあることも。

「選ばれし者感」に浸りたいがために「売れたほうが価値が高い」という尺度に極端に傾倒し、無意識に売れてない人を下に見たり、自分の才能と経済的成功の関連性をやたらと強調したりする人がよくいる。

そういう人の存在が、一般的な「売れたい」ということに対する違和感につながっている気がする。


編集:葛原信太郎

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