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観客とスタァライト

三兎群青
https://twitter.com/azurite_mito


1.『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における観客の存在とはなんだったのか

 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は演劇・舞台を主題モティーフとしたシリーズであるが、観客に対する言及はシリーズ全体(*1)を通して意外なほどに少ない。

 本稿では、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』が観客をどのように扱ってきたかのみならず、観客の側が『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にどのように影響を与えてきたかという視点からも論を進め、「『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にとって、観客とはなんだったのか」という疑問に回答することを目的とする。

 なお、以下では『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を劇ス、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』をTVス、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』をロロロと呼称し、スタァライト、レヴュースタァライトならびに『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は上記3作品全般を指す。


*1 本稿ではTVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』、『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』ならびに『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の3作品を指すものとし、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-』(スタリラ)や実際の舞台公演は含まない。

2.劇スとTVスにおける観客

2-1.「観客」への言及回数の比較

 まず、作中において観客に対する言及がなされた箇所を、劇ス‐TVス間で比較したい。これによって、劇スにおいて観客が強調されていることを明らかにする。

 劇スとTVスそれぞれの観客への言及回数を比較すると以下の通りである。

  • 劇ス:4回

  • TVス:2回(第2話、第12話)

 12話については「観客」という単語そのものは2回出ているが、ひと続きの台詞であるため1回とカウントした。

 劇スが約120分の中で4回であるのに対し、TVスが全12話(約288分)を通じて2回のみであるから、劇スが観客への言及の割合を高めていることは間違いない。例外的に、TVス第10話において「観客席」という単語は登場するが、これはキャラクターが実際に観客席にいることへの発言であり、観客という存在に対する言及ではない。

 また、ロロロの追加部においてキリンは、

「始まります。観客の望む新章の続き、舞台が求める新たな最終章。wi(l)d-screen baroque を」

と語っており、劇スへ向けて観客に対する意識が高まっていることがうかがえる。

 上記に見た通り、TVスと劇スの大きな相違点に観客という存在への意識があることは明白である(事実1)。

 この点はTVス第2話の星見純那の台詞、「観客気分なら出てって」が示唆していると捉えることも可能である。すなわち、TVスには観客の居場所はない。そもそも、TVスにおける物語の中心はトップスタァを目指す「オーディション」である。これには第100回聖翔祭の主演を決定するオーディションの意味も含まれている。いずれにしろ、オーディションは観客に向けたものではないのである。

 逆説的に、劇スのレヴューこそがオーディションの後の「舞台本番」だと解釈することが可能であるし、またその解釈であれば、劇スにおいて繰り返し観客という存在への言及がなされたことも説明がつく。舞台本番である以上そこには観客がおり、観客を意識した舞台が演じられるからである。劇ス「皆殺しのレヴュー」において大場ななが発する、

「これはオーディションにあらず」
「だから、オーディションじゃないって」

という台詞はこれを意味している。

 あるいは、劇スの大きなテーマである「次の舞台へ」という言葉から、劇スを舞台本番ではなく、そのリハーサルまたは「小屋入り」と見ることも可能である。この見方を採用したとしてもやはり、観客への言及は「舞台本番が近づき、これまで意識されていなかった観客の存在が物語に入り込んでくる」という意味でなんら不自然ではない。

 以上を踏まえて、次節では劇スにおける観客への言及を一つずつ拾い上げる。

2-2.劇スにおける「観客」への言及内容

 本節では、劇スでは実際にどのような形で観客へ言及がなされたかを整理する。

言及1:「皆殺しのレヴュー」

「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちは?」
「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」

 大場ななの問いかけと天堂真矢の返答である。ここで真矢は舞台に立つ主語を「私は」に変えており、トップスタァ天堂真矢の自負がうかがえる。天堂真矢はTVスの段階で、「夢は見るものではなく魅せるもの」と自身が「観られる」存在であることを意識していた。天堂真矢だけがこのレヴューで大場ななに斬られないのも、彼女だけはすでに次の舞台を見据えているからである。

言及2:天空のプラットフォーム

「わがままでよくばりな観客が望む、新しい舞台」

 神楽ひかりの「なんなのよ、wi(l)d-screen baroqueって」への返答である。このひかりとキリンの問答自体が、wi(l)d-screen baroqueと観客の結びつきの証左である。それはすなわち、劇スが観客を強く意識しているということでもある。

言及3:「魂のレヴュー」

「観客はそれが観たいのよ!」

 天堂真矢へ向けた西條クロディーヌの台詞である。ここでクロディーヌが「観たい」と言っているのは天堂真矢の「感情にまみれた、こんな姿」である。TVスがそうであったように、スタァライトにおいてレヴューとは舞台少女同士の感情のぶつかり合いであった。それを指してクロディーヌは感情をむき出しにして、互いに競い合うことを求めている。

言及4:「再生産のレヴュー」(*2)

「観客が望んでいるの。私たちの舞台を」

 愛城華恋の言葉への神楽ひかりの返答である。ここでの「観客」のみ、他の場面とニュアンスが異なる。詳しくは4-6.で後述する。


*2 劇ス最後の愛城華恋と神楽ひかりのレヴューのこと。

3.意志と表象としてのキリン

 以下は、劇スに関する古川知宏監督へのインタヴューの一部を抜粋したものである。

劇中、少女たちの前に野菜でできた(=食べ物でできた)キリンが立ちはだかる象徴的なシーンがある。本作において、キリンは“観客”を比喩的に表現した役割を担っているのだが、脚本上では“観客”を少女たちが咀嚼するため、キリンをステーキにして食べるというあまりにも直截的なシーンが検討されていたという。「直感として“食べた”ほうが良いとは思っていたのですが、その表現に悩みました。“食べるという行為”のほかの表現方法を検討していくなかで、アルチンボルドが人の顔を花や野菜で表現した複数の絵画にたどり着きました。見たことのないものにしてしまうと、お客さんは取り残されてしまう。でもアルチンボルドの絵は、名前は覚えていなくても誰もが一度は見たことがあり、記憶のなかに残っているはずです。野菜でできたキリンにしたことで、食べ物なんだと理解しやすくなり、“心臓であるトマト”を設定してモチーフとして引用することに決めました。

出典:MOVIE WALKER PRESS『「痛感したのは、映画への敗北感」“体験型エンタメ”『劇場版スタァライト』古川知宏監督が明かす、シネスコ画面の裏側』
https://moviewalker.jp/news/article/1064939/ 最終閲覧2022/03/06

 この内容から、キリンは「観客の表象」として作中に登場していることがわかる。同時に、トマトを齧る表現は「キリン(=観客)の一部を食べる」という意味を持つことが示される(事実2)。

 すでに2.において、劇スでは観客が常に意識されていることは述べた。ストーリー上、「観客への言及が始まる」明確な区切りとなっているのが第101回聖翔祭決起集会から接続する、列車上でトマト(=観客)を食べるシーンである。この場面で舞台少女たちが観客を己が内に取り込んだことで、その後のレヴューが開演する。ある意味では劇場版における「皆殺し」以降のレヴューを始めたのは観客であるともとれるのである。この解釈はキリンの台詞からも支持される。

「わがままでよくばりな観客が望む新しい舞台」
「あなたたちのせいですよ」

 このときの「あなたたち」とは9人の舞台少女のことを指していると同時に、実際に劇場に足を運んでいる我々、「本物の観客」への言及とさえ受け取ることができる。事実として、我々観客が望んだ結果として劇スが制作されたからである(*3 )。

 加えて、このキリンの台詞に類似するのが、TVス第12話の「星罪のレヴュー」におけるキリンの言及である。以下に抜粋する。

「舞台とは演じる者と観る者がそろって成り立つもの。演者が立ち、観客が望むかぎり続くのです。そう、“あなた”が彼女たちを見守り続けてきたように」

 TVスにおいて、劇スに示される「(観客が望むなら)私たちはもう 舞台の上」という主題はすでに仄めかされているのである。だからこそ、皆殺しのレヴューにおいて天堂真矢は、

「舞台と観客が望むなら、私はもう、舞台の上」

と返答することができた。

 皆殺しのレヴューから繋がるシーンでは音楽の切り替わりにも注目したい。第101回聖翔祭決起集会で星摘みの塔が建てられたときに流れる『世界は私たちの…』の前半メロディは、TVスにおいて華恋がひかりを取り戻すために地下へ向かった際に使用された『舞台少女心得』のメロディである。しかし、そこから繋がる後半の曲調は一転して緊迫感のあるものに変化している。この曲は冒頭部をはじめ劇ス内で繰り返し使用されているメロディである。

 さらに、視覚的にも星摘みの塔というTVスの象徴から列車という劇スの象徴への転換が行われている。そこでトマトが齧られ、舞台少女たちが観客を食べる構図となっており、TVスから劇スへの転換を印象付ける見事な作劇という他ない。

 こうした表現が繰り返し伝えようとしているのは、舞台少女たちの「舞台」が外に広がっていくということである。

 2-1.で述べた通り、TVスにおけるレヴューはあくまで聖翔音楽学園の中だけで完結するものであった。物語の重要な目標地点である聖翔祭も、聖翔音楽学園に限ったイベントに過ぎない。TVスは箱庭的な、閉じた世界で繰り広げられる物語である。

 では劇スではどうか。まず、最初のレヴューである皆殺しのレヴューからして、聖翔音楽学園を出てから始まっている。その後の神楽ひかりがロンドン地下鉄で列車に乗り込む場面も、聖翔音楽学園でもなければイギリスの王立演劇学院でもない。このように、舞台少女たちが卒業を控え、聖翔の外の世界へと羽ばたいてゆく姿に合わせて、レヴューの舞台も聖翔に留まらずさまざまに展開してゆくことになる。

 先述のインタヴューにおいてもう一点興味深いのが“心臓であるトマト”という一文である。実際にアルチンボルドの絵をモチーフにした「野菜キリン」の身体では、心臓に当たる位置にトマトが据えられている。ここで、TVス第11話において、星摘みの塔に幽閉された神楽ひかり(クレール)を迎えに行く愛城華恋に対して、西條クロディーヌが発した言葉を思い起こしたい。

「舞台は私たちの心臓、歌は鼓動、情熱は血」

 ここまでの内容から、

  • 観客=キリン=トマト=心臓=舞台

という対応関係が見えてくる。

 さらにもう一つ、劇スにおいて描かれ続けている暗示がある。

  • 列車=舞台

である。

 例えば中学生の愛城華恋がボイストレーニングに向かうときは電車に乗る。これは日常の世界から舞台の世界への切り替わりの表現である。神楽ひかりがロンドン地下鉄に乗り込むのも、キリンとの会話を経て舞台に上がる決意をしたときである。なにより、皆殺しのレヴューははっきりと列車の上で始まっている。列車に乗ることは舞台に上がることを意味するのである。よって、先に述べた対応関係は以下のように拡張することができる。

  • 観客=キリン=トマト=心臓=舞台=列車

 このように、劇スにおける「観客」は単に観客としてだけでなく、いくつもの意味や象徴を含んだ多義的な存在である。


*3 蛇足ではあるが、我々観客が再上演を望んだ結果として、イオンシネマ海老名に代表される各地の劇場は劇スの異常なロングラン上映を続けた。この事態と上記のキリンの台詞とは非常によく似た構造である。

4.「観客」の居場所

4-1.各レヴューの観客

 ここまで、実際の台詞としての「観客」という観点で論を進めてきた。一方で、レヴュースタァライトはTVス・劇ス共に色彩や舞台セットでの非言語的表現を豊富に用いてきた。この観点からも観客を捉えなければ、劇スにおける観客の存在についての考察としては不十分である。

 2-1.で述べた通り、劇スのレヴューがオーディションの後の舞台本番であるとするなら、そこには必ず観客がいるはずである。以下の項では、皆殺しのレヴュー以降の劇ス各レヴューにおいて観客がどのように表象されていたかを考察する。

4-2.「怨みのレヴュー」

 怨みのレヴューにおいて、観客といえるのは冒頭部に登場する「面のない男たち」である。香子とクロディーヌのやりとりに野次を飛ばし、二人の勝負に注目している。

 これらの観客は男性である点が興味深い。スタァライトでは基本的に男性は描かれてこなかった。聖翔音楽学園が女子高であるから生徒については当然としても、通常、男性教諭もいるはずである。しかしそれらはあえて排されてきた。一方劇スでは中学生愛城華恋の同級生として男子生徒が登場したり、華恋が母に「お父さんは?」と問いかけていたりと、男性の存在が作品世界に現れ始める。また、賭場でのクロディーヌの服装も男装である。

 とはいえ、あくまでも「演者」は女性のみである。賭場で二人を囲む男たちに顔(ツラ/オモテ)がないのはそういった理由であろう。さらに、双葉がデコトラで突っ込んでくることでこの「男たち」は蹴散らされ、その後は一言も発することはない。

 余談ではあるが、博徒が仁義を切るような双葉の口上は、かの有名な「寅さん(*4)」の口上のもじりであろう。そういう意味では香子が「寅さん」の相手役のヒロインであろうから、クロディーヌの男装は双葉の男役との対応である。「寅さん」は葛飾柴又の出身であるからそれを真似る石動双葉は「東京かぶれ」である。京都へ帰る意思がないことを口上の段階で表現している。


*4 『男はつらいよ』の主人公、車寅次郎。特に自己紹介を兼ねた口上が有名で、そこには自身の「生まれ育ち」についても含まれる。

4-3.「競演のレヴュー」

 競演のレヴューにおける観客は、明確にスズダルキャットたちであろう。一目でわかる通り観客席に詰めかけており、ひかりが躊躇いを見せたときにはブーイングの声まで上げている。後半のホラーパートでまひるはひかりに対して「舞台の上なのに演技をしない」ことを糾弾するが、それは同時に「観客の前なのに演技をしない」ことへの非難でもある。

 競演のレヴューの特徴は、スズダルキャットたちが観客であるだけでなく、それぞれの競技の審査員や審判、報道関係者なども担当している点である。同レヴューでは、舞台である競技場からひかりが逃げ出し、舞台裏へ足を踏み入れる。スズダルキャットたちはまひるに率いられてそこまでひかりを追いかけるが、これによって、「舞台裏もまた舞台である」こと、ひかりを追いつめるまひるという構図がまだレヴューの一部であることが示される。

 観客であるスズダルキャットが一貫して二人の動向を追うことで、大きな転換部を持つレヴューが一つのまとまりとして成立しているのである。

4-4.「狩りのレヴュー」

 問題は狩りのレヴューである。このレヴューでは観客という単語は使用されていない。どころか、レヴュー内に観客に相当する存在がいない。

 これは狩りのレヴューだけが特異だということであるから、なにが起きているのか整理せねばならない。

 まず考えられる可能性は、「劇スでは観客が意識されている」という前提に誤りがある、というものである。しかし、これは2-1.に挙げた事実1から否定できるし、3.に引いたインタヴューの内容を踏まえても考えにくい。

 次にあり得るのは、明確に示されていないだけで、観客は存在している可能性である。これには一考の価値がある。狩りのレヴュー冒頭では、「大場映画株式会社」の社名と共に、皆殺しのレヴュー直前の星見純那の様子がリプレイされる。これが「映画」であるなら、観客がいるはずである。

 そこで、誰が観客なのかという問いの答えとして、3つの選択肢が存在する。

  • 大場なな

  • 星見純那

  • 観客は存在しない

である。

 まず大場ななが観客という見方は排して差し支えないであろう。大場映画株式会社という社名が示すように、大場ななはこの「映画」を撮った側(制作側)である。TVスにおいても大場ななはたびたび99期生の様子を写真に収めており、その点で違和感はない。

 では星見純那が観客であるとするのはどうか。これは筋が通る。純那は劇ス冒頭の進路相談のシーンにおいて、大学進学を志しており、舞台から降りることを念頭に置いている。したがって、舞台を降りた純那はもはや演者ではなく観客であり、その純那を指して大場ななは「生き恥晒した醜い果実」と批難している。

 すなわち、大場ななにとって狩りのレヴューとは舞台を降り観客と化そうとしていた星見純那との決別の舞台であった(仮説A)。その結末は再び純那が舞台の上に戻る決意をすることによって純那の勝利に終わる。

 最後に、観客は存在しないと考えることもできる。このレヴューだけが特異なものであるならば、観客が存在しないとしてもおかしくはない。では、なぜ観客が存在しないのか。それは、このレヴューがオーディションの再演だからである(仮説B)。

 再演という概念についてはTVスならびにロロロを参照することとして割愛するが(*5)、この場面で再演されたのは大場ななが繰り返した第99回聖翔祭制作の日々ではなく、第100回聖翔祭を前にして行われたトップスタァを目指すオーディションである。

 そう考える手がかりは、このレヴューの舞台設定にある。劇スの他のレヴューが基本的に聖翔音楽学園の「外」を舞台セットとしているのに対して、このレヴューだけは聖翔音楽学園を舞台として繰り広げられる。そして、狩りのレヴューで勝利したのは「遠くても諦めない星見純那」であり、敗北したのは「まぶしさに目が眩んだ大場なな」であった。これはそのまま、TVスのオーディションにおける二人のパーソナリティである。前述した通り星見純那は舞台から去ろうとしていた。その星見純那を舞台上に戻すために、もう一度オーディションの続きを始めた、という解釈が成り立つ。この解釈であると大場ななの、

「終わったのかもしれない、私の再演が」

という台詞も説明可能である。オーディションにおける大場ななの敗北は再演の終わりであり、再演が今度こそ完全に終わったからこそ、大場ななは次の舞台へ進むことができる。また、大場ななが語った「舞台少女の死」との関連もうかがうことができる。というのも、星見純那の口上の前、大場なながただ一人で向かう先には、ポジション・ゼロはない。ただ行き止まりがあるだけである。あのとき、星見純那が再び立ち上がらなければ、大場ななは舞台を作る道へ進み、演者としての、女優としての舞台少女大場ななは死ぬのである。次の舞台へ向かうことを諦めた舞台少女に待つのは、死のみである。

 仮説Aと仮説Bはどちらも解釈次第で成立しうるが、観客という概念を中心に考えるならば、舞台を降りた観客となりかけていた星見純那を再び舞台に上げたことで、舞台少女大場ななもまた死を免れた、と見るのが妥当であろう。

 なお、この「観客→演者」という転換は、愛城華恋が観客席から舞台上へと飛び入りするという形で、TVス第1話においてすでに示されていた。


*5 筆者は「再演」について、ロロロと劇スの間で「神楽ひかりによる再演」が行われたという仮説を発表している。ロロロの最後のシーンで大場ななと神楽ひかりが邂逅し、そこで交わされた会話が劇スに繋がったと考えるならば、大場ななは「舞台少女の死」について神楽ひかりに語り、ひかりは「次の舞台」へ進むため(同時に華恋を次の舞台に進ませるため)記憶を保ったままでもう一度第100回聖翔祭までの一年を再演する。記憶を保持したままであるから星摘みの塔にとらわれる必要はなくなり、フローラとクレールは塔を降りる(これが劇ス冒頭の「塔」の爆破解体シーンの暗示)。これによってTVスの最後のレヴューの内容が変化し、劇ス冒頭のひかりと華恋のレヴューとなった、とする説である。明確な根拠に乏しく、現在は筆者自身もやや否定的ではあるが、「再演」についての考察の一助となれば幸いである。

参考:note「神楽ひかりはなにをしたか」ミト https://note.com/azurite_mito/n/n9dc6e7215097

4-5.「魂のレヴュー」

 魂のレヴューにおいては台詞として観客という言葉が用いられている。西條クロディーヌの、

「観客はそれが観たいのよ!」

である。このレヴューは明確に「観客に向けた舞台」として仕立てられている。これも劇スが観客を明確に意識している証左である。レヴューの前に「控室」の様子が映るのもそのためであろう。そもそも控室なるものが登場すること自体が異例であり、これから始まるのが天堂真矢と西條クロディーヌによる舞台であることを印象付けている。これは魂のレヴューがACTごとに章立てされていることからも見て取れる。

 ではこのレヴューの観客は誰か。レヴューが始まる前、列車上から劇場を見下ろしている他の選抜組がいた。彼女たちがこの舞台の観客であろう。なぜなら、このとき列車上にいるのはTVス第10話のレヴューデュエットにおいて「観客席」にいたメンバーと一致するからである。すなわちこれはレヴューデュエットでは共闘した天堂真矢と西條クロディーヌが互いに刃を向け合う舞台であり、他のメンバーはレヴューデュエットの際と同様、二人の舞台からより多くを学ぼうとしている。

 さらに、ACTⅡの終わりに、客席からは拍手が巻き起こり、天堂真矢も客席から舞台上の西條クロディーヌへ拍手を送っている。その上、「神の器」について述べた天堂真矢の足元から大階段がせり出してくる。大階段は舞台芸術(特に宝塚少女歌劇)においてスタァがもっとも強調される舞台装置であり(*6)、TVス「誇りのレヴュー」の時点からすでにトップスタァ天堂真矢の表現として彼女の舞台演出に組み込まれていた。これが意味するのは、魂のレヴューにおいては客席までもが舞台の一部、ということであろう。

 魂のレヴューは多くの「読み」が可能であるが、筆者は特に「天堂真矢と西條クロディーヌの疑似結婚式・披露宴」であると見る。というのも、

  • 他のレヴューでは「T」が強調される中、このレヴューだけは「塔」が十字架となっている。塔の出現前からステンドグラスが十字となっており、一貫して「誓いの十字架」が強調されている。

  • 天堂真矢の衣装が幾度となく変化する。これはお色直しの比喩であろう。であるならば西條クロディーヌが男装で登場するのも「男役」、「新郎役」の意図となる。

  • 「誰も観たことのないキラめきを見つけたときだけ」終わるレヴューが、「西條クロディーヌ、あなたは美しい」という天堂真矢の言葉で終わる(*7)ということは、天堂真矢にとっての「誰も観たことのないキラめき」は西條クロディーヌその人であった。

  • 「感情にまみれた、こんな姿」を醜いと断じる天堂真矢が「爆ぜ散る激情」の西條クロディーヌを「美しい」と感じるということは、天堂真矢自身の感情の肯定でもある。

  • 「空っぽの神の器」としての天堂真矢を否定し、一人の人間としての天堂真矢を求める西條クロディーヌと、そのクロディーヌの美しさに目を奪われる天堂真矢、という構造そのものが、単純に恋愛関係と同様の構造である。

  • 舞台セットの色遣いや大量のバラの花からも結婚式のイメージが連想される。

などの点から結婚式らしさを読み取ることができるからである。

 また、クロディーヌから真矢への呼称の変化も興味深い。フランス語には「あなた」を指す語が2種類あり、vousはよりオフィシャルな呼称、tuがより親しい相手への呼称として二人称を使い分ける。TVスでは天堂真矢のことを「天堂真矢」と呼んでいた西條クロディーヌが、劇スでは基本的に天堂真矢を「アンタ」と呼ぶ。フランス語話者であるクロディーヌが「アンタ」というtu的な二人称を選んだことから、二人の心理的距離の近づきが感じ取れる。

 となれば、最初に列車上に5人が配されていたのも、いわば結婚式に招待された友人たち、と位置づけられよう。


*6 スタァライトのモチーフとなっているのは言わずもがな、宝塚音楽学校と宝塚歌劇団である。女性のみの歌劇団は複数あるが「少女歌劇」といえば宝塚歌劇の代名詞であろう。
宝塚における「大階段」は「塔」のイメージを元に生まれたという、スタァライト的観点から興味深い逸話も存在する。
石坂安希によれば、宝塚に最初に「レビュー/レヴュー(revue)」の概念を持ち込んだのは演出家、岸田辰彌であった。岸田のレビューはスペクタクル性から大きな人気を博したが、演出のマンネリ化による観客の「飽き」も招くこととなり、より日本人の趣向に合わせた宝塚独自のレビューが求められた。そこで作られたのが『パリゼット』、後に「レビューの王様」と呼ばれる白井鐵造の作である。この舞台において、大階段はエッフェル塔に着想を得て演出に使用された。

出典:石坂安希『歌劇とレビューで読み解く 美しき宝塚の世界』(立東舎、2022)

*7 この状況が天堂真矢の敗北宣言であることを理解するにはゲーテの『ファウスト』の知識が必要となる。『ファウスト』において悪魔メフィストフェレスとファウストがした賭けは、生きることの悦び、生の美しさを感じたファウストが「時よ止まれ、そなたは美しい」と言葉を発したとき、ファウストの魂はメフィストのものとなる、という内容であった。すなわち天堂真矢の「あなたは美しい」という台詞は悪魔・西條クロディーヌに魂を奪われたことを意味し、二人の賭けはクロディーヌの勝利となる。西條クロディーヌの「賭けは、私の勝ちよ」という台詞もこの文脈に従っている。

参考:ゲーテ、高橋義孝訳『ファウスト 一・二』(新潮文庫、1967)

4-6.「再生産のレヴュー」

 再生産のレヴューにおける観客への言及は、

「観客が望んでいるの。私たちの舞台を」

という神楽ひかりの台詞である。この時点で明確にこのレヴュー(あるいはここまでのレヴュー)が観客に向けられたものであることが示されている。劇スとTVスの絶対的な差異がこの「観客への意識」であることは、TVス第12話の星罪のレヴューにおける愛城華恋の台詞、

「この舞台には共演者も裏方もいない」

からも明らかである。華恋は「共演者」、「裏方」にのみ言及しており、「観客」についてはまったく触れていない。共演者は俳優育成科A組、裏方は舞台創造科B組に対応する単語であるから、TVス第12話で意識されているのはあくまで聖翔音楽学園の内部のみである。ただし、3.で引いた、キリンの観客への言及は例外である。

 さて、観客について注目したとき、このレヴューにおいて特に重要な点は華恋がトマトを「齧らなかった」という点に尽きる。3.で引用した通り、トマトはキリン(観客)の一部、ひいては観客それ自体としての記号である。選抜組の9人のうち、愛城華恋を除く8人がトマトを齧り、古川監督の「観客を食べる」という表現に一致している。

 では、なぜ愛城華恋はトマトを齧らないのか。愛城華恋だけが次の舞台へ向かうことができなかった、ということであろうか。

 否、である。愛城華恋もまた、次の舞台へ向かっている。しかし、劇中ではトマトを齧らなかった、齧れなかった、のである。より正確を期するならば、「我々観客は、愛城華恋がトマトを齧る場面を観ることができなかった」のである。

 まず、再生産のレヴューで上記の観客への言及がなされるまでの流れを整理する。

 愛城華恋が約束タワーへ辿りついたとき、神楽ひかりの足元には齧られたトマトがあり、ひかりは口を拭う。続いて、

「やっぱり、私にとって舞台はひかりちゃん」

という愛城華恋の言葉に対して、神楽ひかりは

「それはあなたの思い出? それとも、この舞台の台詞?」

と返す。そしてブザー音と共に、二人を覆う「見えない幕」が上がるかのような演出が入る。

 このとき、愛城華恋と神楽ひかりが交わす台詞が、

「観られてる、誰かに」
「観客が望んでいるの。私たちの舞台を」

である。二人とも、明確に我々、「実際の観客」を向いてこの台詞を言う。

 ここでなされているのは、第四の壁(*8)の破壊である。取り払われた「見えない幕」こそがその第四の壁を意味しており、あの瞬間、愛城華恋と神楽ひかりは我々を「見ている」。したがって、再生産のレヴューの観客は、「我々自身」なのである。神楽ひかりが言及している観客とは、「実際に今、このとき、劇場に足を運んでいる、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観ている私たち」である。

 再生産のレヴューが劇スの他のレヴューと明確に異なるのはこの点である。他のレヴュー、たとえば魂のレヴューにおいては、レヴュー内に観客が用意されている。西條クロディーヌが言及した観客とはあくまで「観客一般」であり、特定の人物のことでも、我々自身のことでもない(仮に西條クロディーヌも第四の壁を破壊しているのだとしたら、魂のレヴューに客席があり、劇場が舞台となる劇中劇の形式をとる理由がない)。

 そして、この点が愛城華恋がトマトを齧らなかった理由に通じる。これまで本稿が論じてきた内容はこうだ。

  • 劇スではTVスになかった「観客への明確な意識」が存在する(事実1)

  • トマトを齧るのは、「キリン(観客)の一部を食べる」という表現である(事実2)

  • 劇スの各レヴューには「観客の表象」が用いられている(事実3)

 以上の事実と、再生産のレヴューにおける観客は我々自身であった、という表現から、愛城華恋がトマトを齧らなかった理由を考えると、結論は一つである。

  • 我々観客は、愛城華恋に食べられたから「愛城華恋がトマトを齧る場面」を観ることはできなかった

 これは同時に、エンドロール後のシーンにも繋がる。レヴュースタァライトという作品の最後を飾るシーンであるにもかかわらず、映るのは愛城華恋の背中である。その表情をうかがい知ることはできない。それは我々が、愛城華恋に「食べられた」からであり、愛城華恋の一部となって、愛城華恋の視点でその場面にいるからである。


*8 第四の壁とは、演劇において舞台上の世界と現実世界とを隔てる境界を指す概念的な壁のこと。我々は舞台の登場人物の行動を観ており、登場人物の傍白を聴いているが、登場人物たちは我々を感知しない。この断絶をもたらしているのが第四の壁である。

5.スタァライトされる、ということ

 最後に、再生産のレヴューのその後について述べて本稿を終える。

 再生産のレヴューの後、ひかりは華恋にトマトを投げ渡す。そのトマトは、私たち観客である。

 しかし、単に観客であるだけではない。再び、エンドロール後の最後のシーンを思い起こして考える。あのシーンでは、次のようなテロップが表示されていた。

本日、今 この時

 なぜ、この一言が最後のシーンに必要であったのか。それは、愛城華恋の次の舞台を示すためである。愛城華恋は「我々、現実の観客」を食べた。エンドロールでは愛城華恋の進路だけが明確にされていないように見えるが、この最後のシーンこそが愛城華恋の進路である。すなわち、愛城華恋の次の舞台とは「私たちがいる、今、この世界」なのである。より拡大解釈していえば世界そのものであり、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という概念の外でさえある。

 すでに述べた通り、劇スのレヴューは聖翔音楽学園の外を舞台としてきた。それは卒業を控えた9人が、聖翔の外の世界へ羽ばたいてゆくからである。愛城華恋も同様に、聖翔の外、世界そのものを舞台として、強くキラめいて生きてゆく。

 したがって、神楽ひかりが投げ渡したあのトマトは、観客であり、「聖翔の外、広い世界」でもあったのである。そして、華恋をより広い世界に導くことは神楽ひかりの責任でもあった。些細なきっかけで愛城華恋を舞台少女にしてしまった、舞台に上げてしまった神楽ひかりなりの、罪の清算でもあった。

 以上のことから、本稿では次のように結論する。『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』にとって、観客とは世界であった。舞台そのものであった。それは舞台少女たちを次の舞台へ向かわせる燃料であった。

 であるからこそ、我々は愛城華恋の観客となり、愛城華恋の一部となった。神楽ひかりは愛城華恋を舞台少女に生まれ変わらせただけではない。愛城華恋にスタァライトされたあのときから、我々観客もまたキラめきを求める舞台少女なのである。

著者コメント(2022/10/10)

 まずは「観客」という点からスタァライトがなにを描いていたのか、「観客」はスタァライトにとってなんだったのかを、今回の合同誌で発表できることを嬉しく思います。
 劇場版 少女歌劇レヴュースタァライトを観たとき、もうお話を書くのをやめようかと思いました。
 あまりにも美しすぎて、遠すぎて、届かなくて、自分では一生かかってもこの場所まで行けそうにないと感じました。スタァライトそれ自体を全く知らなかったのに、そう思ったのです。少なくとも100 年はこれ以上の作品は地球上に誕生しないだろう、人類が到達しうる最高の作品の一つだ、他の一切の作品はスタァライトの後塵を拝するしかない……と。その衝撃は今も色褪せていません。
 今回、スタァライト考察の合同誌について主宰よりお声がけいただき、参加する運びとなりましたが、最初は迷ったのも確かです。考察はしていても、作品としてあまりにもレベルが高すぎる。自分が果たしてこの作品を前にしてどの程度やれるだろうか、と。同時に、スタァライトへの感情……尊崇とでも言うべき自分の感情が、考察の邪魔になりはしないかと危惧してもいました。誰もが知る通り、スタァライトを客観的に観ることは非常に困難ですから。
 結果として、作中の「観客」については、少なくとも半分程度は語ることができたのではないかと感じています。あえてキャラクター一人一人、レヴューの一つ一つについては深掘りせず、脚本上、演出上の事柄だけに絞って考察しました。音楽、色彩、演劇論と多分野の諸賢が参加される合同誌で、字書きでしかない自分が寄与できる部分は「観客」という視点の提供であると考えたからです。
 しかし考察は殺され、死んで生まれ変わるもの。本稿が新たな考察の燃料となれば幸いです。

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