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映画『パラダイス 希望』

2012年/製作国:オーストリア/上映時間:91分
原題 PARADIES: HOFFNUNG
監督 ウルリヒ・ザイドル




予告編(海外)


STORY

 テレサの娘メラニー(13歳)は、夏休みに人里離れた隔離施設にて行われる、ダイエット合宿に参加する。
 ダイエット合宿では食事制限をはじめとする厳格な規則が設けられており、参加した子ども達は10代の旺盛な生命力と自らの肥大化した体とを持て余しながら、また施設の規則に若干の反抗を試みながらも、それに従う毎日を送ることとなる。
 そしてそのような日々の中、メラニーは施設の中年の医師に対し恋をする。また医師の方もメラニーに対し、まんざらでもない思いを抱いている様子で、それを感じたメラニーの恋心は日増しに肥大化し、自らの体重と同じように、制御不能となってゆく。しかし、メラニーが肉体関係を欲すれば欲するほど、医師は彼女を遠ざけるようになり・・・
 人里離れた無機質な隔離施設にて、メラニーが見出した「恋のパラダイス(楽園)」に、はたして「希望」は訪れるのか?



レビュー (ネタバレ有)

 ウルリヒ・ザイドル監督「パラダイス・トリロジー」、第3部『パラダイス:希望』。
『愛』『神』よりも心がヒリつきましたし、三部作中最も危うさを醸すラストショットは、音も含めて完璧でした。

 朝霧漂う澄んだ空気の森の中にて繰り広げられる余りにも場違いな行為と、そのような行為を画面中央に事も無げにポンッと置いて魅せることの出来る監督のセンス。
 自分の肉体を否定される状況下における13歳のメラニーの、その否定された肉体を目いっぱいに誇示しての愛らしい恋心の表現(性欲への目覚め)と、眼をそむけたくなる程のナイーブさと痛々しさ。
 大人たちの強欲(金銭欲)と怠惰(無知、無責任)による犠牲として、幼少期から肥満に陥いり、自らの意志と知識ではどうすることも出来ずに負のスパイラルへと堕ちてゆく子ども達の姿。

 キリスト教の素養のない私のような人間にも、本作を含む「パラダイス・トリロジー」が【七つの大罪】を巧みに取り入れた美しい構成を持つ作品であることは容易に理解可能であるけれど、見事と言うほか無いのは、その【七つの大罪】に安易に主題を求めることなく、全ての宗教が信者を取り込む際に「切り札として利用(使用)する『愛』『神』『希望』という3つの題材(大罪)」を主題として選択し、それに真っ向から対峙し、キリスト教のみならず全宗教が押しべて内包する欺瞞を見事に三枚に下ろし、さらには最高の技術をふるって調理し(撮影・編集等)、そのようにして完成させた最高の料理(作品)を、観客へとこともなげ且つ優雅に振舞った点にあると思います。
 その余りにもオシャレでありながら貫徹した意志を持つトリロジーに、私はウルリヒ・ザイドルという稀有の天才監督の豊かな感性と気骨、そして一流の知性を、身震いするほどに深く感じたのでした。

 ※【七つの大罪】
 「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「暴食」「怠惰」

 『愛』『神』『希望』は、全ての宗教に欠かせない言葉ですけれども、それらは「人間が【言葉】という道具を用いて創り出した実体の無い幻」であり、実際の世界には影も形も存在しない幻想であるという共通点を持つものなのではないかと思います。してみれば、『パラダイス(楽園)』もまた、同様のものであるといえるでしょう。
 現実に形として存在しない幻想は、どれほど希求しても実際に得ることは出来ない・・・
 ゆえに、本トリロジーの主題である『愛』『神』『希望』を希求し、パラダイス(楽園)を目指したテレサ、マリア、メラニーの3人は、何れも華麗な討ち死にを果たすこととなります。また、その幻想を追い求める姿は余りにも痛々しく、悲しいほどに滑稽でした。
 しかし同時に、それらを求めて行動した彼女たちの姿はどこまでも純粋で、どこまでも愛おしかった
 『愛』は得られず、『神』は存在せず、『希望』は無かった
 けれど、『救い』はある。 
 
 何処に・・・?
 
 3人の主人公達はそれぞれ実在する『体(肉体)』を持ち、幻想ではないそれを、自らの意思により動かすことにより行動することが「可能である」ということを、そして例えその『体(肉体)』が欲望の充満した、儚く朽ちゆく肉塊であるとしても、人生には生きる価値があるのだということを文字通り「『体(肉体)』を張って」私たちに教えてくれた。
 もちろん「自分の『体(肉体)』からは逃れられない」という制約付きではあるけれど・・・

 ここでふと思うのは、もしかするとウルリヒ・ザイドル監督が肥満体型な人々を主役に選んだ理由のひとつには、台詞(言葉)やストーリーよりもむしろ人間という動物の『体(肉体)』をこそ、より鑑賞者に対して認識させることが目的としてあったのではないか・・・ということ。
 何故なら聖典や言葉の中にではなく、本当は人々の『体(肉体)』にこそ、豊かな「パラダイス」を創造しうる可能性が内包されているのだから。

 ウルリヒ・ザイドル監督の冷徹でありながらも美しく澄み渡る眼差しの中に、私は、現代の「システム」や「思想」に雁字搦がんじがらめにされ、更には「無知」と「無関心」と「七つの大罪」の海に自ら入水し、身動きの取れなくなってしまっている人々への諦観、そしてそれとは真逆の、優しく見守りエールを送り続ける温かな思い遣りに満ちた心が同居しているのを観た

 ケニアのビーチとダイエット合宿の施設より帰宅したテレサとメラニーが、これまでよりもお互いを大切な存在として人生を歩んで行けますように。
 そしてマリアも宗教狂いから立ち直り、幸せと充足感に満ちた日常を取り戻しますように。
 そう、心より祈りながら、レビューを終えます。



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