【修験の空洞】
【修験の空洞】
(*自分、己、或いは自我のあり方を考える時に必要となる考え方。)
〈まず、「自分」というものがどこにあるのか、ということを考えてみましょう。〉
はじめに以下の動画を見てください。これは無重力状態での水滴の挙動を示しています。
無重力の中では移動せず浮いていますが、中の共鳴状態と周りの温度の関係から必ずある一定方向に回転が起こります。
回転が始まると遠心力が発生するので、重いものが水滴のより外側に移動し、軽いものが回転軸の方へ移動します。そして中心である回転軸周辺に気泡が溜まっているのが見て取れます。
(地球も同様に考えることができます。素直に考えれば、地球の中心にとても重いものが核としてあるというのは間違い)
つまり「共鳴」とはこのようなものなのです。一つの共鳴体があったら、こういう現象が起こる。
そうすると、人間の体もそうなっていると言えるのです。
もちろん人の体は、生きるために色々な部品に分かれていますが、頭頂から股にかけての中心軸の部分は「空洞的」であると言えます。本当の空洞になっているわけではありませんが、「空洞的」なのです。
人間はコマのように回転しているわけではないので、そこに遠心力は発生していません。なので体がドーナッツのようになっているということではないのですが、そこに体がある以上常に共鳴しているのです。そして「共鳴回転」ということが考えられるので、人の体の中心は「空洞的」になるのです。
このように考えてきたところで、「自分」というものを考えてみます。
自分。例えば膝頭とか腿とかと較べると「自分」は真ん中に感じるでしょう?足の中指が自分って言う人はあまりいませんね。自分って言ったら、真ん中の軸のどこかに感じる。
振動がより少ないところが「自分」なんです。
細胞という物質に振動があって細胞同士が共鳴していろんな生命活動が起こって、そうやって生きている。それが生きてるということですが、でも自分という意識はどこにあるのかと考えると、そこでは無い、と言えます。
立体的振動が強いところではない、体の中心部分のどこか、です。
そして全ての物質は物質である以上、振動しています。それは「立体の振動」。立体の振動には自我はないということが言えるのです。
〈次に、チャクラについて考えてみたいと思います。〉
だいたい図のような位置に7つのチャクラがあります。順におおよその解剖学的な特徴を見てみると以下のようになっています。
第一チャクラ:股間チャクラ。いわゆる会陰。腰仙骨神経叢の一部の陰部神経叢のある、神経のよく発達している部分。
第二チャクラ:下腹部でいわゆる丹田。下大動脈分岐部リンパ節。
第三チャクラ:上腹部で、腹腔内に関わる大きな神経の集まりがある。
第四チャクラ:胸骨下リンパ節。
第五チャクラ:頸部。上肢、頸部、胸部のコントロールに重要な神経が集中している。
第六チャクラ:額のところで、頭部の中心。第三脳室という脳髄液の溜まり。
第七チャクラ:頭頂部。脳の神経の中心点。
見てお分かりのように、第一、第三、第五、第七の奇数順のチャクラは、神経が重要な働きをする場所となっています。それは「電気」。
反対に、第二、第四、第六の偶数順のチャクラは、体液、リンパ液、それは「水」が重要な働きをする場所です。
自分が体を内観しようとした時、「水」のところは内観しづらく、「電気」のところは過敏に分かり易いという特徴があります。
この7つのチャクラを一本の軸で繋いでイメージをした時、その軸は場所によっての内観のしやすさしにくさで、凸凹したいろんなグラデーションができます。
イメージする軸は小指ぐらいの太さがいいです。あまり太い軸を想像するとスカスカで生きてる甲斐がなくなってしまいますので。
チャクラのことはここで一旦置いておきます。また後で出てきます。
〈次は、松尾芭蕉です。〉
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」
写真:山形県 立石寺
この句はご存知でしょう。
岩にしみ入る蝉の声。蝉の声が岩を揺らすのか?とても物理的なことを芭蕉は言っています。
夏の暑い時、蝉がうるさく鳴いている。蝉の声がそこにある岩を揺らすのか、、岩は言いました。揺れますよ、と。
これは空間の振動のことですから、自我を形成する振動の話とは別です。蝉の声でも、空間の振動ですから物質を揺らします。蝉の声で揺れる岩の振動は微細なものではあっても。それを芭蕉は歌ったんだと思います。
ちょっと一つの情景を想像をしてみましょう。
蝉がうるさく鳴く夏の暑い時、田舎のおばあちゃんのところへ行きます。
暑い昼下がり、一番暑い午後二時ごろ、縁側に来て座っています。
蝉がとてもうるさく鳴いています。めちゃくちゃ暑いです。
そこにおばあちゃんが、グラスに氷の入った冷たいカルピスを作ってくれます。
暑くて、うるさくて。。でも、カルピスの中の氷がグラスに当たる音がすると、何故か涼しく感じる。。
そういう一瞬って、すごく時間が長くて(ゆっくりで)、また静か、に感じませんか?蝉がうるさいのに、逆に静かに感じないでしょうか。
周りからの圧力(ここでは暑さや音=蝉の声)が高くて、逆に自分が静かになってしまう。それが「空洞」を感じている状態なのです。
周りの音がうるさいのも、暑いのも、振動です。周りが強く揺れていると、真ん中の静かなところに居たくなります。
暑い夏の「停滞感」。。
そして一番振動の少ないところは、回転体で言えば軸じゃないですか。
〈懐古感、未来感〉
その夏の停滞感と、「懐古感」あるいは「未来感」が相通じるものがあるんです。
例えば鉄錆。港のドッグの係船柱だったり、クレーンとかが錆びている様子。そういう錆を見た時に、人は何か懐かしい感じを抱きます。
この懐かしい感じを考えていくと、遠い未来を考えるのではなく近い未来を感じる未来感。近未来。
その感覚と懐かしい感じは、かなり近いんじゃないかと思います。それは言い方を変えると、芸術感。
芸術というのは、既に知っているものを見せられても、それ知っていることによって、記憶を辿るだけになります。
全く見たことないものだけど、それを見た時にどこか懐かしい感じがすることってないですか?
もちろんどこにも引っかからない全くの未知のものは、認知のしようがないので、評価できません。逆に、評価ができるということは、どこかに懐かしいところがある。
要するに、記憶を体がどう処理して自我に取り込んでいるか、そういう話なのです。それが芸術感。だから誰の中にも芸術はあるのです。
それを体で言うと、肝臓の上が「未来ディスク」、下が「過去ディスク」というふうに、血流、共鳴との関係でいうことができて、体でそれを両方感じて、両方が脳で処理されて、未知で新しいのに同時に懐かしいという感覚が生まれます。
時間感覚や記憶を理知的に掘り下げているのではなく、感覚として、懐かしい、カッコイイ等とふと思う。瞬時に判断して、良い悪いを言っています。
それは自分の中にある体との結びつきの中で、脳が解析できるデータの中から良い悪いを判断しているのです。(例えばそれは、AIがビッグデータの中から情報を吸い上げて判断していくのと似ています。)
そういう意味で脳と体をしっかり結びつけて、人生を豊かなものにしていく上で、芸術はとても大事なものだと言えるでしょう。
ここで先程のチャクラに話を戻します。
チャクラを上から順番に見ていくと、上から下まで同じ太さにしようとしても、必ず「神経」のところは広く開いて、「水」のところは狭くなりデコボコした状態になります。
それをなるべく真っ直ぐにしようとし、真っ直ぐになった時、共鳴回転体として上下が非常にバランスが取れた状態になります。
代表的な部分として、肝臓の上と下を見てみます。
肝臓の上、第四チャクラは「水」で、下の第三チャクラは「神経」ですね。
この第三チャクラにぐっと寄ると、情報が脳で具体的に処理されるので「懐かしい」を具体的に感じます。それが上の第四チャクラに行くと、懐かしいというデータを元に処理をした後の自分、というものなので、未来を感じるんです。
これは「自我」との比較なんです。
縦の軸に自我があって、データを上の例では肝臓の上と下のどちらの立場で見ていくか、両方の立場があるわけです、自我には。
そのバランスが取れるのが、同じ太さになるという意味です。
神経のところが大きくて水のところが小さいと、肝臓の上と下のディスクの例で言えば、ただ懐古趣味になるだけで、芸術感には至らない。
未来を感じられる、新しいものを見られる未来ディスク(第四チャクラ)があって、その上に過去のデータも踏襲できる。同じ太さがあればそのような芸術感が得られる。だから芸術感があるっていうのは、チャクラが全部まっすぐで、共鳴回転体が綺麗に回るということなんです。
〈修験の空洞〉
水は基本的に立体ですよね。そして神経は面で、電気じゃないですか。
面と立体の混ぜ具合が、真っ直ぐ。つまりチャクラの連なりが小指ぐらいの太さで真っ直ぐになると、体の様々な異常も正常化してくるって言えるんです。
そのような体の軸、空洞を「修験の空洞」と呼んでいます。
(具体的には)、どの部位が広くてよく使えているか、どこが狭くなっていて使えてないかはすぐに調べられることなので、簡単に言えば使えていないところを拡げて行くようにして行けば良いわけです。
この修験の空洞が同じ太さでストンと通っていると、「生きていても死んでいても同じ」だってことが分かります。生きてる意味などあまりないよね、とかがわかってきます。
誤解を招きそうな言い方ですが、これは病気などによる強い抑鬱の中で感じるものとは全く違い。体を感じれば感じるほど、生きている意味ということに対して、生きていても体が朽ちてしまっても、意識はあるんだなということに気づいてくるわけです。死んでも死なないってことなんですね、結局は。
ここはここの空想の世界の体を持っているだけな話なので。
色即是空、空即是色という言葉もそこから出てきたものじゃないかと思うのです。
死んじゃっていいや、ってそういうことを言っているわけではないですが。
理科学的に考えて行っても、気持ちと理科学はちゃんと結びついてるということなのです。