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名句全集中鑑賞∶夜長の主砲編

長き夜や「こゝろ」を閉じた手を洗う

常幸龍BCAD


「こゝろ」は小説である。それを閉じたのだから、その本を閉じたのだ。

選評にある通り、それを読み終えたのか、途中なのかは、読み手に委ねられている。しかし、どちらの読みでも、この句の素晴らしさか損なわれる事はない。

自分が言及したいのは、閉じた本が「こゝろ」だったのは、果たして偶然だろうか、という点だ。

作者は恐らく、色んな本を読んできたと推察する。もしかしたら、秋の夜長を共に過ごした本の数は、膨大なものになるかもしれない。仮にそうだして、作者は何故、この句にこの小説を選んだのか。

それは、この句において「こゝろ」が、作者の「心」そのものになり得るからだと思う。読書という行為を通じて、真摯に小説と向き合う事で、その本には自分の心が投影される。劇中の主人公が、もしも自分だったとしたら…そんな事を考え始めると、気がつけば、本という物質に自らの心が宿っていることに気がつくのだ。その趣向から考えても、非常に重たいテーマを孕んだ作品ゆえ、もしかするとその心は、描かれているドラマを受け止めきれなかったかもしれない。

しかし、作中主体は、そこに描かれた世界から逃げる為に「心」を閉じたのではない。 むしろ逆だと思う。作品が醸し出す余韻に再度向き合う為に、その他の雑音を全てシャットアウトし、これ以上の情報が入り込めないようにする事で、自分の心を「こゝろ」で満たしたかったのではないだろうか。

下五でダメ押しのように配された「手を洗う」という行為は、風呂に入って身体を綺麗にしてから寝る、というような類のものではない。小説は決して、心も身体も汚してはいない。洗ったのは、汚れたからではない。

最も純真な自分で、もう一度その本を開く為だ。

長き夜という季語を信じ切れば、この本が、その心が、作者の強い意志によって「一旦閉じられた」のだと断言せざるを得ない。



【了】

鑑賞:恵勇

俳句:常幸龍BCAD
※敬称略

出典:俳句ポスト365
兼題「夜長」中級者以上 特選


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