見出し画像

句養物語 蓑虫篇⑤

窓の外に降る雨は、まるで全てを知っているかのように、優しく、淡く、この病室を包み込んでいた。オッサンの『決意』を聞いた看護師は、感極まって大粒の涙をこぼしている。オッサンも神妙な面持ちで、窓の外に目を向けていた。

ふと、カーテンで仕切られた奥のベッドから、微かにすすり泣くような声が漏れてきて、二人の視線はそこへ束ねられた。

「ありがとう…。ありがとうございます…。」

声の主は、絞り出すようにお礼の言葉を述べて、ゆっくりと自分のベッドを覆っていたカーテンを開けた。

看護師が咄嗟に声を上げる。

「寝てなきゃダメですよ!あなたは重症なんだから…!」

患者を諭す看護師を遮って、オッサンは語りかけた。

「ねーちゃん、おはよう。気分はどう?」

明美は、その眼に涙を浮かべながらも、自分の命を助けてくれたオッサンへ、精一杯の謝意を伝えた。

「あの…本当に…本当に、なんとお礼を言っていいのやら…」

言葉が上手く探せないでいる明美に、オッサンは応えた。

「いや、ボクは特に何もしてないよ。あそこから飛び降りたのは、ねーちゃんの意思だから。」

あの日、観覧車に衝突した流星の影響で、ゴンドラは今にも崩れ落ちるという状況だった。そこへ現れたオッサンは、まず明美をゴンドラから外へ出し、レスキュー隊の待ち受ける地上へと飛び降りさせたのだった。下に用意されたマットが衝撃を吸収したおかげで、明美の外傷は最小限で済んだのだが、やはり流星のガスが作用して、彼女もまた昏睡状態に陥っていた。ガスを抜いて昏睡から覚めたのちも、副作用が強く出ていて、オッサンのように元気に…というわけにいかなかった。彼女は会話をすることはできたものの、身体の自由が利かず、特に足が上手く動かせない状態にあったのだ。

二人のやり取りを見守ってきた看護師は、医学的見地から分かってしまうことも多いだけに、やるせない気持ちでいっぱいだった。そして次第に、自分個人の感情が、看護師としての責務を上回っていった。この二人を…いや、正確には三人を、最後まで一緒にいさせてあげるべきだ…そう思い始めていたのだ。

「予備のふとんを持ってきます。理事には、私から言っておきますから。それと…」

看護師は、その責務を抑え込むようにして、やや強めの口調でそう言うと、閉まっているカーテンに手をかけて、続けた。

「太郎さんも、仲間に入れてあげて下さい。起きて話すことはできませんが、話しかけてあげて下さい。」

看護師は少し震えたような声でそう言うと、太郎のベッドを覆っていたカーテンを開けて、部屋の外へと出ていった。

こうして三人は、実に二週間ぶりの再会を果たした。しかし、太郎は看護師が言った通り、起きて話すことはできない。オッサンと共にゴンドラごと地上へ落下した彼は、火傷や複雑骨折に加えて、吸い込んだガスの作用が他の患者に比べてかなり強く出ていた。その為、胸部のガス抜きを行った後も彼が昏睡状態を脱することはなく、脳機能は低下の一途を辿るばかりだった。

明美の意識が回復する頃には、太郎は脳の機能が完全に停止し、脳死の状態となっていた。明美は太郎との関係を伝え、看護師から経過説明を受けたのだが、脳死という概念を理解するのにはかなりの時間を要した。脳死というものがいわゆる植物状態とは違って、回復する見込みのない状態であることを、彼女は初めて知ることになる。彼女が愕然とし、泣き続けたのは言うまでもないだろう。自身もガスの作用に苦しみ、寝ていることが多かった彼女だが、自分の身に起きていることを理解するより先に、受け入れがたいこの運命にただ打ちひしがれ、ひたすら彼の事を考えるばかりだった。

脳死の状態になると、身体も数日のうちにその役目を終えるようにして、死に至る事が多い。言い換えると、脳死状態とは、身体の死が脳の死に追いつくまでの『期間』を指していると言える。何も処置をしなければすぐに死へ至ってしまうので、人工呼吸器や投薬などの方法を用いて延命措置を行うのが一般的であるが、この措置を行うかどうかの判断は、近親者に委ねられている。太郎の場合は、既に身寄りがない状態だったので、明美にその決断が委ねられることになった。ただ、彼女の中に、延命措置を行わないという選択肢はないに等しかった。そして呼吸器をつける太郎の顔を見続けるのは耐えられないと思い、投薬による延命措置をお願いしたのだった。看護師は明美と太郎の関係を汲んで、特別に二人を同室に収容し、できるだけ長く二人の時間を過ごせるよう取り計らってくれた。明美は自分の身体が太郎と同じ運命を辿りつつある事を、それとなく感じ始めてはいた。しかし、やはりそれよりも、太郎という人間が生きる最後のページを共有していたい、その気持ちが心の大半を占めていたのだ。

「しっかし、にーちゃん…よく寝るなぁ。」

太郎の状況を理解していないのか、オッサンがいきなりそんな事を口走ったので、明美は自分にこの状況を説明する責任があると思った。

「あ、あの、実は太郎は、もう脳の機能が…」

そう言いかけた明美を制しながら、オッサンは諭すようにして続けた。

「そうそう…脳が、眠っているんだよね。」

明美は、ハッとさせられた。しかし、それが何なのか、ハッキリとは解らなかった。ただ、オッサンは事実を述べているのではない。脳が眠るという概念は、医学の領域には存在しない。では、オッサンの言葉は虚偽なのだろうか?それならば、なぜ今、明美の心は動いたのだろうか?

オッサンは続けてこう言った。

「ボクはさ、難しいことはよく分かんないんだけどね。この部屋の蓑虫が、生きてるってことだけは変えられない事実だと思うの。ドアについてるんだよね、生きてる証として。蓑虫の折り紙が2つ。…ってことはさ、やっぱりにーちゃんは寝てるんだよなぁって。まぁ、蓑虫ってさ、中身どうなってるか分かんないじゃん?起きてるのか寝てるのかも分かんない。でもさ、やっぱり、今を生きてるってことだけは、信じていいと思うんだよね。」

明美は、オッサンの言葉のひとつひとつを噛みしめるように、じっと聴いていた。つらくてつらくて、到底受け入れられない『事実』でしかないはずのものが、ゆっくりとゆっくりと、他の『何か』に置き換わっていくような気がした。

「少なくとも、ボクは信じてる。ねーちゃんも信じてみたらどうかな。」

明美は静かに、しかし強く頷いて、『眠っている』太郎の顔に目を向けた。

感情も理性も届かない、闇の深淵にいるはずの太郎の顔は、なぜだか平穏と安寧の表情に満ち溢れているようだった。

明美はふっと気持ちが軽くなり、オッサンと太郎の関係について、詳しく知りたいと思った。

「観覧車でチラッと言ってましたけど、太郎とは…Twitterで知り合ったんですよね?」

「そうそう!いやぁ、もう、にーちゃんはさぁ、俳句とねーちゃんの事しか言わないんだから…!記念日に遊園地で一年に一度の俳句を披露するって言うもんだから、ボク勝手に応援しに来ちゃったのよ!」

楽しそうに太郎の話をしてくれるオッサンを見ていたからか、明美はすっかり笑顔になっていた。自分の知らない太郎の素顔を覗けそうだと思い、Twitterでのやり取りについて、色々と説明を受けることにした。

ちょうど、オッサンの布団を取りに行ってくれた看護師が戻ってきて、オッサンもこの部屋に滞在できるよう、工夫して布団の場所を確保してくれた。準備が終わった看護師は、パンパンと手を払うように叩き、あとはご自由にと言わんばかりに、部屋を出ていこうとした。しかし何かを感じたのだろうか、一瞬立ち止まって、明美たちの方を振り向いた。そして、三人の顔を順々に見ていき、最後に一番奥の窓の外を見て、こう呟いた。

「雨、あがって良かったですね。」

そう言い残して、看護師は部屋を出た。

いつまにか泣き止んでいた空が、晴れ間の覗く午後に、優しくくるまれていた。こうしてここは、再び3人だけの空間になったのだった。


句養物語 蓑虫篇⑥

https://note.com/starducks/n/naf606eef54b3


句養物語 蓑虫篇④を読み返す

https://note.com/starducks/n/ne05b6e357469

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?