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句養物語 蓑虫篇⑥

オッサンと明美は、時間が過ぎるのも忘れて、ひたすら太郎の話を続けた。話に区切りがついたところで、明美はずっと気になっていたことを訊ねた。

「あの、生まれ変わったら、薔薇になるっていう話は…。」

オッサンは少し照れ笑いを浮かべながら、自分の転生願望を再度口にした。

「うん、なるよ。なるなる!まあボク、目立ちたがり屋って訳じゃないんだけど、結果的にどうしても目立っちゃうとこがあってね。もう、どうせだったら、最初から目立つ存在に生まれ変わっちゃおうかなって。まあ見ててよ。乞うご期待だね!」

オッサンは元気よく答えたが、ふと何かに気づいたように呟いた。

「あっ…しまった。薔薇は夏の季語だったか…!しくじったなぁ…蓑虫は秋の季語だし、蝶々は生まれ変わって秋の蝶になるのかなぁ…。夏まで遠いなぁ…。」

オッサンが突然困った表情になったので、明美は少し気を遣って、こう応えた。

「それは大丈夫ですよ。薔薇が咲くころだって、蝶々はいますから。」

そう言われたオッサンは、目を丸くして言った。

「そっか!『夏の蝶』ね!!なるほど、そうだね!そっか、そっか、うん。その方が蝶々も“元気一杯に”再会できるってもんだ!ねーちゃん、凄いな!!」

明美は季語の特性までは理解が及ばなかったが、曇りかけたオッサンの表情がすぐに元通りになったので、満足そうに微笑んでいた。

なんだかとっても気分が晴れてきた明美は、思い切って自分の転生願望も、口に出してみようと思い立った。

「私は…もしも生まれ変わることができるのなら…」

明美がそう切り出してきたので、オッサンは聞き手に回った。

「一回の人生は一瞬でもいい。その一瞬を、何百、何千、何万回も、繰り返し生きたいです。ちょっと贅沢かもしれませんが…。」

明美は少し照れながら、遠慮気味に話したつもりだったが、その内容はオッサンに深く刺さってしまったようだった。

「ねーちゃん!!凄いな!!そんなこと言う人、初めて!!」

オッサンは興奮して続けた。

「何度生まれ変わっても、にーちゃんと巡り逢うつもりなんでしょ?憎いね~、このこの~!」

オッサンは冗談っぽくそう言ったが、明美にとってそれは図星以外の何物でもなかった。

「彼は、私との大切な時間の節目に、一生懸命俳句を詠んでくれました。記念日だけでなくて、日常のちょっとした場面でも。でも、出会った日に詠んでくれた一番の最初の俳句が、私は一番好きで…。俳句の良し悪しは、正直言って分からないです。でも私は未だに、それ以上の俳句には出会ったことがないんです。だからこそ、もう一度、出逢いの場面を生きてみたい。」

明美はそういうと、太郎の顔を覗き込んで、愛おしそうに呟いた。


『コスモスに吹く風君のせいじゃない』


それを聞いたオッサンは、頷くように応えた。

「にーちゃん、その句の話しもしてたなぁ。今思うと、直したいところもある句だって。でも、その時の気持ちを、あとから書き換えることなんて、出来ないと思うんだ。」

オッサンが自分の気持ちを理解してくれたので、明美は嬉しくなって続けた。

「そうですね。この句が一番好きな理由は、出逢った瞬間を切り取ったものだからだと思うんです。それって、一生に一度しかない事ですよね。次に会う時は、必ず『再会』になるわけですから。一瞬の想いを切り取って、たった17音に封じ込められるなんて、俳句って凄いんですね!」

「うん、うん。そうだね。その通りだね!しかも、その想いはず〜っと消えずに残っていくんだからさ…!」


昼過ぎから話し始めて、やがて日も沈んで夜の帳が下りる頃、オッサンは、ずっと触れてこなかった話題に、意を決して踏み込むことにした。

「あの、脳死っていう言葉、ボクはあまり使いたくないんだけどさ…」

明美は強く頷きながら、オッサンの言葉を受け入れた。

「はい、同感です。」

「にーちゃんから聞いているかどうか分からないけど、一応話しておきたいことがあるのね。」

明美は再度、しっかりと頷いた。

「にーちゃんのお父さんも、亡くなる前に脳死判定を受けていたらしくてさ…。それはそれは辛かった…って。」

「そう…だったんですか…」

明美は驚きを隠せないでいたが、この話の続きが気になった。

「それでね、お父さんは俳句が好きで、にーちゃんが俳句始めたのも、お父さんの影響なんだって。」

「それも…初めて知りました…。」

明美は内心、『あの人ったら何も話してくれてないじゃない…』と少し嫉妬心のようなものを感じていた。

「うん、それでね。お父さんは俳句に関して、ある強い想いを抱いている人だったらしい。ねーちゃんは、没句って…どういうものか分かる?」

明美は、太郎が俳句についてアツく語るのをすぐそばで聞いていたので、なんとなく理解はできていたが、没句に限らず、俳句全体をより深く知りたいと思い、オッサンの解説に身を委ねた。

「いつも太郎が言ってるのを聞いてましたけど…。」

明美が関心をもってくれているようなので、オッサンも揚々と話を続けた。

「俳句って、いろんなところへ投句して、業界の先生みたいな人に評価をしてもらうってのが、結構あるんだけど。良し悪しを決めなきゃならないから、一定のレベルに満たない句は落選ということになって、掲載されずに、そのまままなかったことになるんだよね。これを、没句と呼んでいるわけ。」

「なるほど…。光が当たることなく、その句は没してしまう…という意味ですね?」

「その通り。没になるってことは、何らかの欠点があるから落選してる…それをみんな、頭では分かってるの。けど…それがね、どうしようもなく強いこだわりの末にできあがったものだと、お腹を痛めて生んだ子供みたいに、愛おしく感じられることだってあるわけなんだよ…。」

「あぁ…なんとなく、分かる気がします。言葉にそういう命みたいなものが宿るっていう感覚。」

オッサンの話の熱量に応じて、明美の理解度、関心度も徐々に上がってきていた。

「当たり前だけど、自分の子供よりかわいい存在なんて、いないじゃない?それを没とか言われたら、心中穏やかでない人もいるわけよ~。」

「つまり…太郎のお父さんもそれに関しては、かなり強い気持ちをもって臨んでいた…ということでしょうか?」

「その通り。お父さんはね、一緒に俳句をやってる仲間の没句を、どうにかして供養してあげたいって考え始めるわけ。まぁ、正確には供養っていうと本当に死んでしまったみたいな事になるから、蘇生させてあげるにはどうしたらいいのか…って、思案してたみたい。」

「なんだか、俄然興味が湧いてきました…。」

「そうでしょ?お父さんは、仲間の没句を集めて、編集することを思い立つんだ。一つの兼題につき、一句ずつ皆から集める。そうすることで、同じテーマの「詩」が手元に集まるでしょ。お父さんはそれらの詩を繋ぎ合わせて、全く別の大きな物語を作ろうと試みた…ってわけ。」

「何ですか、それ!すっごく面白そう!!」

「兼題のテーマに沿って物語を紡ぐ事ができれば、寄せられた没句は、劇中句として新たな命を吹き込まれ、それを読んでくれた人の心の中で生き続けることができるんだよ。つまり、没じゃなくなるってことだね!」

「いやもう、とにかく興味が湧いて仕方ないです!一体、どんなお話になったんですか?」

怒涛のように話し続けていたオッサンのペースが、ここで少しだけ落ちた。

「うん…。実は、お父さんはそれを完成させることなく、亡くなってしまったらしいんだよ…。」

オッサンの言葉を聞いて、少し落胆したような仕草を見せた明美だったが、すぐにその顔に光が差した。

「もしかして…太郎はその意志を引き継いで…?」

「そう…。たぶん、そうだったんだと思う。にーちゃんは、お父さんの成し得なかった夢を、どうにかして形にしたがってた。それは間違いない。」

「…ということは、太郎もまた、それをやり遂げられなかった…?」

オッサンは、明美の質問に答える前に、こう切り出した。

「にーちゃんは、確かこんな風に感じたって言ってたな…。お父さんが脳死になってしまった時、脳機能の全てが止まっているようには見えなかった。お父さんは本当は寝ているだけで、夢の中で物語の創作に励んでいるに違いない…って。」

それを聞いて明美は、思わず太郎の顔を見た。

「確かに、寝ているようにしか…見えないですよね。」

オッサンも頷きながら続ける。

「にーちゃんは、その時の気持ちを俳句にして、お父さんに捧げたんだ。」

そういうと、オッサンは一息置いてから、その句を読み上げた。


『月影や脳死は永き終の頁』


「なんだか…難しい内容の句ですね…」

すぐに内容が理解できなかった明美に代わって、オッサンは自分なりの解釈で鑑賞を始めた。

「そうだね。とても難しい。脳死という概念そのものが難しいから、そこに向き合おうとするだけでも難しく感じるし、まとめようにも17音では足らない。だけど、にーちゃんはたぶん、こう言いたかったんじゃないかな。脳死は人の死ではなくて、人生の最後の1ページなんだ…そしてそれは、外から見えている以上に、永いものなんだ…って。」

明美はなるほど、という感じで頷きながら、鑑賞の続きを促した。

「月影…というのは?」

「月影っていうのが季語になるわけだけど、これ、言い換えると月光っていう意味になるのね。だから例えば、月明りとか、明るい表現をすることもできたはずなんだけど、にーちゃんは敢えて『影』という一字を入れる事によって、脳死というものの『冥さ』を表現しようとしたんだと思う。その一方で、月の光は柔らかいものでありながら、闇の深淵をも照らす事ができる。それが最後のページだとしても、そこを照らす存在さえあれば、その1ページは果てしなく続いていくものだという事を、月影の力に託して詠んだんだろうね。お父さんの最後のページには、きっと詩の欠片がたくさんあったと思う。にーちゃんは季語の力を借りて、それを照らし出そうとしたんじゃないかな。」

明美は深く頷いてから、太郎の顔を見遣って言った。

「脳死が人の死ではなく、その人の人生の巻末の1ページである為に、この『月影』が必要なんですね…。」

オッサンの鑑賞に異論こそなかったものの、明美はとにかく『脳死』という表現がどうにも気に入らなかった。自分だったらどう表現するか…そんな事が一瞬頭をよぎって、その気持ちが口を突いて出る。


『脳眠る綺麗なままの月ですか』


明美が突然俳句を詠んだので、オッサンはビックリしてしまった。

「ねーちゃん、凄いな!!」

「いや、そんな…私は全然…」

褒められた明美は謙遜していたが、オッサンはさらに賛辞を続けた。

「こんな句見たことないよ!脳死という重いテーマを、わかりやすく噛み砕いているし、語り口調にリアリティがある。決して覗くことの許されない、深淵の中に閉じ込められた月…。脳はもう眠ってしまった…。それでも尚そこにある月は、今私の目に映る月と同じように、綺麗であるに違いない。作者の痛切な願いが手に取るように分かる。読んだ人はみんな、共感してくれると思う!凄い、凄い句だよ!!」

次々と繰り出されるオッサンの賛辞を、明美は恐縮しながら受け取りつつ、ふとあることに気がついて呟いた。

「彼は父の為に、私は彼の為に、句を詠んだ。それって『没』にはなり得ないですよね…。」

オッサンもハッとしたような顔をして、明美の次の言葉を待った。

明美は、先程から自分の心の中にあった『願望』の正体が、いつの間にか紐解かれていた事に気づいた。想っているだけではなく、それを言葉にする事で、もしかしたら願いは叶うのかもしれない。

「一回の人生は一瞬でもいいから、その一瞬を繰り返し生きたい。そして、その一瞬を、彼が初めて詠んでくれる俳句で、埋め尽くしたい。何度生まれ変わっても、きっと彼は私に出逢って、その度に俳句を詠んでくれるに違いない。その俳句は、きっと出逢いを切り取ったもので、コスモスの句と同じくらい大好きな句になるはずです…。生まれ変わった数だけ、私にとっての名句は増えていくんです…!」


明美の真っすぐな気持ちを聞いて、さすがのオッサンも返す言葉を見つけられないでいた。そして、畳み掛けるように放たれた次の言葉が、彼女自身の願いだけでなく、太郎やそのお父さんの想いをも包み込んだ。

「そうすれば、その人生から没句という概念はなくなると思う。だって、私は彼の俳句を没にはしないから。他の誰でもない、私の為に詠んでくれた俳句を、没になんてするわけないから。私は没なんて言わない…大好きだって、言ってあげたいんです…!」


明美の願いの核心部分を目の当たりにしたオッサンは、しばしその内容に打ちのめされていたが、やっとの事で言葉を絞り出した。

「いやぁ…。にーちゃんは今、心の中で号泣してると思うよ…。」

明美は頭の中で、自分の言葉を何度も反芻しながら、太郎の顔をじっと眺めていた。その横でオッサンはようやく、自分の言葉に辿り着いた。

「俳句は自分の為に詠むものだ…っていうのがよく言われることだけど…。それでもやっぱり、評価を気にしたり、他人と比べる場所があったりするのが、今は目立つ部分になっているんだよね…。ただ、詠もうとするテーマによっては、誰かの事を偲んだり、強く想って作られる俳句もある。例えば、さっきねーちゃんが詠んでくれた『脳眠る』の句は、にーちゃんの『月影や』の句に対するアンサー俳句になってる。俳句に対して俳句でお返事した事によって、双方の句に意義みたいなものが出てくるよね。そうやって一対に束ねられた句に、没という概念は入り込めないもんなぁ。」

オッサンの言葉を聞いて、明美は続けた。

「俳句を詠む人全員が、自分の句を優しく照らしてくれる『月影』に出逢う事ができれば良いと思うんです。例えどこかで落選したとしても、誰か一人でもその句を好きだと言ってくれたら、それは没ではなくなると思うんです。」

オッサンは明美の願いを強く受け止めた上で、こう切り出した。

「うん、そうだね。その通りだと思うよ。そして、そういう句がより一層輝けるように、にーちゃんの最後の1ページを、ボク達でしっかり照らしてあげないとね。」

「えっ…?」

戸惑う明美を見据えながら、オッサンは力強く決意表明をした。

「物語を完成させよう。ボクとねーちゃんでフォローすれば、にーちゃんは、必ずやり遂げてくれる。」

明美は驚いて目を丸くしたが、何が何やら分からないままで、オッサンに訊ねた。

「一体、どうやって…?」

待ってましたと言わんばかりに、オッサンは話の舵を切った。

「いや、実はね。最近新しいプリンターを買ったんだけど、印刷するものがなくて困っててさ…。」

オッサンはそう言うと、持ってきていた荷物をガサガサと漁り始めた。

「この前、職場の後輩がお見舞いに来てくれた時に、なんか必要なものあったら持って来ます!…なーんて言うもんだから、これをお願いしたんだよ…。」

そういうとオッサンは、何かがプリントされた紙を取り出した。

「それは…何が書いてあるんですか?」

明美に訊かれて、オッサンは満面の笑みで答えた。

「にーちゃんのお父さんが句友から預かったもの。それをにーちゃんが文字データで保管してて、ボクに見せてくれたんだ。それを印刷したんだよ。」

「これ…って…」

「そう、皆から集めた没句だよ。でも、もうすぐ没句じゃなくなるけどね。」

オッサンが何をしようとしているのか、明美はまだ理解できないでいた。しかし、オッサンの顔は自信に満ち溢れている。

「ねーちゃん、ちょっとだけ頑張って、にーちゃんの側まで来てくれる?」

オッサンはそういうと、部屋の隅にあった椅子を、太郎のベッドの右側に据えて、明美をそこへ誘導した。明美を椅子に座らせると、自分は反対側へ回って、二人が太郎を挟むような格好になった。オッサンは俳句が印刷された紙をベッドの真ん中に、ちょうど太郎のお腹辺りに置いた。

窓から差し込んでいる淡い月光が、室内の白い灯りを押しのけるようにして、その『詩』を照らし出した。

明美はオッサンの目を見た。オッサンも頷くようにして視線を投げ返している。明美は、オッサンが何をしようとしているのか、そして自分が、いや、自分達が何をすべきなのかを悟った。

「にーちゃんは眠っているんだから、夢を見る事はできるはずだよね。」

明美は、力強く頷いた。オッサンは続けて決意を述べる。

「お父さんが成し遂げられなかった物語を、にーちゃんに紡いでもらわないとね。」

明美はもう一度頷くと、すぐにこう応えた。

「その為に、私たちが『月影』になるんですよね?」

明美の返事に、今度はオッサンが力強く頷いた。

「ここにある没句を束ねて、一つの大きな物語に。にーちゃんなら、きっとできるよ。」

明美はオッサンの意志の全てを理解したうえで、一つだけお願いをした。

「たぶん、彼の次に眠りにつくのは、私の脳だと思います。もしそうなったら、私にも『同じこと』をしてもらえませんか?そうすれば、同じ物語の中でまた出逢えると思うんです。」

オッサンは笑いながら応えた。

「もちろん合点承知だよ!……あ、でも、ボクも仲間に入れてよね!!」

明美も笑いながら頷いた。

オッサンは、太郎の左手を握って言った。

「じゃあ、始めよう。ねーちゃんは、にーちゃんの右手を持っててあげて。」

明美は言われたとおりに、眠っている太郎の右手を握った。太郎と明美、オッサンの3人が繋がる。3人の前にあるのは、没句を集めた用紙である。没句は兼題ごとにまとめられており、太郎、あるいはお父さんの意思によるものだろうか、物によっては『ペアリング』がなされているものもあった。物語の筋道は、ある程度ここに示されているのかもしれない。

明美はふと思い立ち、オッサンに訊ねた。

「そういえばこのお話、なんていうタイトルなんでしょう?」

「ああ、そういえばそれは聞いてなかったなぁ。」

オッサンが悩み始めたので、明美は提案した。

「俳句の『句』という字を使って、『句養物語』っていうのはどうです?」

「いいねぇ!句養物語…最高じゃない!」

二人は嬉しくなって、握っている太郎の手をさらに強く握りしめた。太郎の表情も、心なしか赤らんだように見えた。

物語のタイトルも決まり、太郎の脳内で実際にストーリーが動き始める準備が整った。こうして3人は、『句養物語』の起点に立ったのだった。


「二人で一緒に、上から順番に読み上げていくからね。」

オッサンがそういうと、明美も頷いて応えた。

「句養物語、開幕。」


二人は息を合わせて一句目から順番に読み上げていく。


その声は、あたかも橋を渡るようにして太郎の両腕を伝うと、眠っている脳へと向かっていき、詩の欠片として蓄積されていく。次々と送り込まれてくる句が、互いに互いを震わせて、結びついていく。やがてその句同士が呼応し、点と点が線になっていくようにして、壮大な背景が浮かび上がる。ある句はそこに花を咲かせて色をつけ、香りを漂わせた。またある句は、風を吹かせて音を生んで、肌の質感を蘇らせた。もう働かないはずの五感の機能が、物語の中で蘇生されていく。今この瞬間に、没句という概念は存在していない。詩は生きているのだ。照らし出すことによって、生かし続ける事ができるのだ。どの句も美しく輝いている。季語を通じて描かれた人間模様から、喜怒哀楽の感情が零れ落ちていく。


『句養物語』は、太郎の最後の1ページを埋め尽くさんばかりに拡がっていく。それはきっと、果てしない1ページになる事だろう。

物語は続いていくのだ。まだ生きようとする詩の欠片と、その道を照らそうとする光がある限り。





『蓑虫や父は脳死のまま生きて』

(恵勇)


『鬼の子の泣き出す朝に降る雨は』

(ヒマラヤで平謝り)



『蓑虫は絶望の風と鈴なりに』

(万里の森)


『老木の蓑虫千の鼓動沸く』

(猫髭かほり)



『蓑虫や別れ話は沈黙に』

(新開ちえ)


『くたびれて蓑虫にまで嫉妬する』

(里山子)


『蓑虫は蓑の身のまま歩みけり』

(嶋村らぴ)



『蓑虫を助けておればカンダタも』

(山川腎茶)


『クラインの壺蓑虫のうしろ前』

(みづちみわ)



『蓑虫をひねり出したる小さき指』

(夏湖乃)


『蓑虫の蓑はやはらか色香満つ』

(でんでん琴女)




『やはらかき空の柩として花野』

(常幸龍BCAD)


『葦を裂く舳先に夥しき老蝶』

(恵勇)



『名も知らぬ草にも花と知る花野』

(真井とうか)


『正解を言ったら消える秋の蝶』

(里山子)



『花野とは生きていくこと生きること』

(蝦夷野ごうがしゃ)


『断崖に吸ひ込まれたり秋の蝶』

(露草うづら)


『風のままさやさやうたう花野かな』

(染め物屋)


『ふふふふと飛んでいきたる秋の蝶』

(新開ちえ)



『モアイ像千年眠る花野かな』

(露草うづら)


『夕暮れをいたはりあひて秋の蝶』

(でんでん琴女)



『花野道きみの欠伸は三回目』

(みづちみわ)


『観世水模様を描く秋の蝶』

(染め物屋)



『ふたりとも何も喋らぬ花野かな』

(新開ちえ)


『秋蝶よ俺もおまえもサバイバー』

(蝦夷野ごうがしゃ)



『アアルへと誘ふ花野の主の声』

(恵勇)


『秋蝶の墓標なりたる空き家かな』

(ノアノア)



『荒れてゐる空き家の庭の花野めく』

(ノアノア)


『秋の蝶手妻の蝶のごと消ゆる』

(みづちみわ)

 


『児を探す声のかすれや大花野』

(でんでん琴女)


『秋蝶を追ったあの子に付いた白』

(千代之人)

 


『大花野彼方に見ゆる仏さま』

(山川腎茶)


『遠い人心も遠く秋蝶の』

(猫髭かほり)



『花野ゆき花野左折し右花野』

(嶋村らぴ)


『結局は右も左も秋の蝶』

(万里の森)



『花野ゆく俳句が好きで好きで空』

(里山子)


『晴れた日の黄の花が好き秋の蝶』

(梵庸子)



『一輪を選びて花野の翻る』

(万里の森)


『匿名といふ名の自由秋の蝶』

(真井とうか)



『花野へはひとりぼっちが丁度いい』

(猫髭かほり)


『老蝶とアクセルは先進むもの』

(ヒマラヤで平謝り)



『花野まであと25kmの青看板』

(ヒマラヤで平謝り)


『上上下下左右左右秋蝶』

(嶋村らぴ)



『子の服に花野みやげの謎の白』

(千代之人)


『幼子に捕へられたる秋の蝶』

(山川腎茶)



『曇天の旧街道や黄の花野』

(梵庸子)


『秋蝶を閉じ込める灰色の空』

(常幸龍BCAD)




『流れ星未読のままのメッセージ』

(太平楽太郎)


『夜ひらく流星胸の手術痕』

(常幸龍BCAD)


『三万年後迎えに来てね流れ星』

(嶋村らぴ)


『だぶだぶのシャツの匂いや流れ星』

(里すみか)


『終焉や意地の煌めき流れ星』

(ノアノア)


『椅子ふたつ据えて湖畔の流れ星』

(野地垂木)


『接吻を真二つに裂き星流る』

(恵勇)


『流れ星或いはタイムマシン哉』

(たろりずむ)


『「よさこい」は酣なりて流れ星』

(渡辺香野)


『チーム『星』の特攻隊長流れ星』

(ヒマラヤで平謝り)


『列島の微熱くすぐる流れ星』

(夏野あゆね)


『流星の仲間なるべしISS』

(鷺沼くぬぎ)


『流れ星背負う願いの重かろう』

(猫髭かほり)


『流れ星ぼくのウルトラマンはどこ』

(みづちみわ)


『チロチロと宇宙の草むら星飛べり』

(うた)



『流れ星消えては生まる星の界や』

(れな)


『流れ星九日ぶりに晴れた空』

(里山子)









『月夜道果てて来世の二人かな』



句養物語 蓑虫篇 【完】




句養物語 終の頁 



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