無名の人々に寄せる、祈りにも似た共感の物語/原作翻訳者・柴田元幸氏が解説するドラマ『プロット・アゲンスト・アメリカ』

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米現代文学の代表的作家フィリップ・ロスの歴史改変小説をもとに作られた、アメリカ大統領選が迫る今だからこそ観たいこの意欲作について、原作の翻訳を担当した柴田元幸氏に解説して頂いた。

 2004年にフィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』を刊行後まもなく読んだとき、これはジョージ・W・ブッシュ政権への怒りが背後にあると思った。描かれているのはあくまで1940年代前半、もしもチャールズ・リンドバーグが大統領選に立候補して勝利を収めたら、という仮定に基づくフィクションであり、迫害される人々はひとまずユダヤ系アメリカ人に限定されるが、民族や宗教の違いゆえに人の権利と自由が奪われていくという流れは、9/11以降のブッシュ政権下のアメリカで起きていることにほとんどそのまま重なるように思えたのである。

 2020年のいま、これが本当に一国の大統領のやることだろうか、と改めて驚くことも忘れてしまうほど頻繁に信じがたい言動を現大統領がくり返すなか、ジョージ・ブッシュが当時どれだけ邪悪に思えたかを思い出すのも難しくなってしまったが、「愛国者法」で個人の自由を制限し、特定の国を「悪の枢軸」と呼んで世界を単純に白黒に塗り分ける姿勢は、アメリカの理想を踏みにじる暴挙に感じられたのだ。

 1959年に『さようなら コロンバス』でデビューして以来、『プロット・アゲンスト・アメリカ』以前に20冊の作品を発表していたフィリップ・ロスは、それまでにもたびたび、アメリカでのユダヤ人差別に触れてはいた。特に、ひとまずノンフィクションと称した2冊『事実』(1988、未訳)と『父の遺産』(1991、集英社文庫)では、自分が子供のころ受けた暴力や、長年保険外交員を務めた父が会社で受けた不当な扱いについて書いている。また以前には、ニクソン政権を徹底的にからかった爆笑小説『われらのギャング』(1971)もあって、政治の世界にロスが踏み込んだのもこれが初めてではない。

 だが、差別、迫害、不寛容といったテーマにこれほど正面から向きあい、社会の政治的側面を取り上げたのは、長い作家生活のなかでもおそらく『プロット』が初めてだった。それで、「そうか、さすがのロスも、政治について黙っていられなくなったか」と僕は早合点したわけだが、これは僕だけではなかったと思う。『プロット』で現代を描いたつもりはない、あくまで1940年代の仮想世界を描いただけだ、と作家本人は述べたが、小説は時に、作者の意図を超えて現実と反響しあう。『プロット』を読んでいる最中に、2000年代のアメリカを包んでいた非寛容の空気に思いをはせなかった読者はまずいないだろう。

 2017年にドナルド・トランプが大統領に就任し、「アメリカ・ファースト」を打ち出すなか、『プロット・アゲンスト・アメリカ』はふたたび現実と反響しあうことになる。そもそも「アメリカ・ファースト」はリンドバーグにとっても鍵となる言葉だったし(小説でも現実でも、リンドバーグの活動基盤はThe America First Committee〔アメリカ優先委員会〕だった)、マイノリティを敵視し「アメリカ」が白人の所有物だという前提に立つところも共通している。「ユダヤ人」を「移民」と置き換えれば、『プロット』で起きていることと今日のアメリカで起きていることとの類似は明らかだった。アメリカでは多くの人々が――そして日本でも何人かが――「トランプを予見したような小説」と『プロット』を思い起こした。

 ロス自身は、亡くなる一年ちょっと前、eメールでのインタビューで、リンドバーグとトランプの相違に触れて、リンドバーグは曲がりなりにも空の英雄であり勇気も技術もあり人格と実体があったがトランプはただの詐欺師だと述べている。だが「ただの詐欺師」に世界を動かす権力が与えられていて、詐欺師がその権力を非人間的な形で行使していることは事実である。HBO®で『プロット・アゲンスト・アメリカ』をドラマ化した当事者たちも、またいち早く書かれた欧米の劇評の評者たちも、みな一様に、『プロット』がその現在進行中の事実に警鐘を鳴らす作品であることを強調している。ある作品が何かの事実に警鐘を鳴らしていることは、原理的にはその作品の芸術的価値とほとんど無関係だと思うが、今回ばかりは例外かもしれない。

 小説『プロット・アゲンスト・アメリカ』が見事なのは、架空の政治的展開を説得力豊かに描きつつも、焦点はあくまで、その政治によって、名もない市民たちが被る変化に当てられていることである。読者は歴史の勉強をするより前に、フィリップ少年の不安を、フィリップの父の怒りを、母の葛藤を通して、迫害される個人と家族の生を自ら生きる。今回のドラマ化は、そうした原作の美徳を、各俳優の絶妙の演技もあって、もしかしたら原作以上にくっきり浮かび上がらせている。複雑なストーリーを安易にわかりやすくすることもなく、結末などはむしろ原作以上に曖昧になっているが、だからといってモヤモヤした終わりという印象がまったくないのは、無名の人々に寄せる、祈りにも似た共感が物語の底に流れているからにちがいない。

柴田元幸(翻訳家/米文学者/東京大学名誉教授)
1954年、東京生まれ。米文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。翻訳の業績により早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳するほか、著書も多数。文芸誌「MONKEY」の責任編集を務める。
翻訳単行本『プロット・アゲンスト・アメリカ もしもアメリカが…』
集英社より発売中
著者:フィリップ・ロス 訳:柴田 元幸
2,600円(本体)+税

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