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2024年9月の星の行方

天川星誌「日月星辰」九月号より抜粋
『浄土見学』

ある朝、眠気覚ましに両腕を上げて、背筋を思い切り伸ばしたあと、ふっと力を抜いた時に声がした。

「まだ定員に余裕がありますよ。どうですか?」

私が暮らす狭いアパートには、西向きの部屋にひとつだけ窓がある。その窓から見える景色は隣家の壁だけで、2×4で建てられた住宅によくありがちな面白味のない素材しか見えない。しかし、その声が聞こえた後は違った。私を手招きするように大きな蓮の花が咲き誇る道が見えた。隣家の壁はどこへ行ってしまったのだろう。昨夜の天気予報が正しければ、今日は一日曇り空のはず。それなのに、空は金色に光り輝き、わずかに紫の色を帯びた白い雲があちこちに浮かんでいた。

「どうします? もうそろそろ締め切りしますよ」

その声に、私ははっきりと答えた。

「遠慮します」

私の声を、私の耳がそう聞き取ると、ひとつのまばたきを境に窓から見える景色はすっかり元通りになった。何の説明もないのに、定員とか締め切りとか急に言われてもどうすればいいかわからないから、早々に断るのが最善だと私は思った。それに今日の昼には、待ちに待った打ち合わせがある。私の人生の行く末を左右するかもしれない大切な時間なのだ。

それから2時間ほどかけて丁寧に身支度を整え、私は予定よりも早く家を出た。集合場所は東京駅の丸の内中央口改札前。私鉄と地下鉄を乗り継いで、およそ50分ほどかかる。幸いどの電車も空いていて、座席に座って本を読みながら移動ができた。本の著者は、まさに今日これから私が打ち合わせをする人。私のイラストを気に入ってくれて、次の新作の表紙にしたいと連絡があった。

その名前は、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。雑誌やTVなどあらゆるメディアで何十年も活躍している作家だ。彼の作風や思想を馴染ませるために、その話があってから数日の間に寝食を忘れて何作品も読破した。過去作から最近の作品に至るまで、彼の創作の根幹は変わっていない。老若男女問わず、人間の心情をこんなにも理解している人がいるのだろうかと思えるほど、彼の作品を彩る登場人物はみな魅力的だった。いざ本人に会ったら、興奮のあまりにしゃべりすぎてしまうかもしれない。そんな自分自身をいかにコントロールするかが今日の私の大きなテーマだった。

あと少しで東京に到着する、その時に突然電車が止まった。車内アナウンスによると、前を走る電車内で急病人が出て、対応に追われているらしい。出発を早めたから、時間にはまだ余裕がある。私は内心、自分自身を褒めた。身支度が済んでから、家で時間をつぶすことも考えたが、集合場所で待つほうが安心できると思えたからだ。

車内を見渡すと、ほとんどの人が表情なくスマートフォンを覗き込んでいる。誰も今の状況に気づいていないのだろうか。彼らの中では何事も起きていないようだった。私は読みかけの本を閉じて、イラストのアーカイブをまとめたファイルで膨らんだバッグの隅にしまいこんだ。

「ご迷惑をおかけいたしました。まもなく出発します」

そのアナウンスが流れた時、別の車両から歩いてきた女性が私の目の前に立った。鮮やかな紫のスーツに身を包んだその女性の胸元には、小さな蓮の花のブローチが輝いていた。大きいサングラスをかけた女性は、片方の手で吊り革を握り、もう片方の手でサングラスを少しずらして私のほうを見ると、鼻から大きく息を吐き出した。

「問題です。私は一体誰でしょう?」

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