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2024年5月の星の行方

麒麟児の舞



人がぎゅうぎゅうに押し込められた電車内で、一瞬だけ窓の外の空を泳ぐものを目にした。鯉のぼりだ。悠々と風に揺られる色とりどりのその姿は、私の記憶の棚からいくつもの思い出を引き出した。特に印象的なのは、小学生の頃に住んでいた地域で行われた端午の節句のお祭りだった。大人が何人も関わってようやく設置した巨大な鯉のぼりがワイヤーにくくられて宙を泳ぐその下で、クラスメートのリュウが「桃太郎」の舞踊を踊ったのだ。

リュウは物静かな子だった。教室では椅子に浅く腰掛けて、背筋をまっすぐに伸ばす様子がいつも目に止まった。他の男子に比べると声は小さく、今思い返せばとても澄んだ声だった。音楽の授業でソプラノのパートを担当するリュウの声はまるで天使のようで、聖歌隊の歌を聴いているようだと先生が褒めていた様子を今も鮮明に覚えている。

小学校の卒業と同時にリュウも私も引っ越してしまったから、今どこで何をしているかはわからない。まさか20年以上経ってからリュウのことを思い出すとは夢にも思わなかった。しかし、地下鉄の乗り換えについてアナウンスする車掌の声に耳を奪われた瞬間、私はリュウのことをまた忘れてしまった。

リュックサックを胸の前で抱え込んだおじさんが、電車を降りようとする人の大きな流れに逆らうようにドアの脇に立っていたけれど、その勢いに呑まれてくるくると回りながら車外へ押し出される様子を横目に私はホームへ降り立った。いつもなら向かいの車線で待機しているはずの地下鉄が遅れているようで、ホームはすぐに人でいっぱいになった。まるで競争するように乗り換えする人々の流れが見られない代わりに、今日はほとんどの人がスマホに目を落として背中を丸めていた。

スマホの暗証番号を打ちかけたその時、聞き慣れない音を耳にした。リズミカルな三味線の音だった。音はホーム上ではなく、階段を降りた改札階のほうから聞こえる。私が乗るはずの電車は車両点検を理由にまだまだ到着しないらしい。私は身を乗り出して階段の下を眺めた。何人かの人が足を止めて同じ方向を向いている様子がちらりと見えた。気づいたら私は階段を足早に降り始めていた。足が勝手にその音のほうへ進んでいるとしか思えなかった。

改札階へ降りると、普段誰も目にしないような駅の掲示板の前で三味線を弾きながら唄う年増の女性と、袖のない赤い羽織と格子状に模様の入った白い着物を着た小学校3~4年生くらいの男の子が古典的な舞を披露していた。通勤ラッシュの慌ただしい時間帯なのに、その場だけはおおらかな人々の視線に包まれてゆったりとした時間が流れていた。駅員の姿も何人か見えた。総勢15人から20人くらいの輪だろうか。足早に改札を出入りする人々の流れもある中で、その場だけは明らかに異質に見えた。私がその場へ着いた時は、ひとつの曲が終わるところだった。まばらな拍手が送られる中、三味線を手にする女性は言った。

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