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つれづれ1 ニューヨークの地下鉄にて

ニューヨークのメトロに乗った。隣に座った乗客は、女の人で、柄物のインドを思わせる赤茶けたワンピースを着ていた。このご時世だからマスクをしていて、メガネをかけていたが、顔はどことなく中国っぽい。しかし、彼女の話す英語はラテン系特有のアールを巻くような英語だった。
なぜ彼女が話す英語を聞くことになったか。それは、次の駅で乗ってきた黒人の若い男の人、大学生くらいに見える人と話し始めたからである。その話を聞いていると、どうやら彼女は学校の先生だったらしい。元気にしているかとか、先生は別の学校に行ったんでしょとか、そんな会話をしていた。彼は、仕事をしているようで、別の仕事を探そうとしていると言った。彼女は、今は仕事がたくさんあるから次の仕事を見つけるのに困らないねと嬉しそうだった。どことなく、彼女は彼の行く末を気にしているようだった。アメリカでは先生は生徒をとにかく褒めるが、ここでも彼の言葉のひとつひとつを彼女は喜んで聴いていた。
先生らしく、彼の言葉が聞き取れないときには、もう一度言ってもらえる?、とはっきり言っていた。私なんかだと、聞き取れないときは、sorryとかで濁して聞き返してしまうから、もう一度言ってくれる?、とはっきり聞き返せることに羨ましさも感じる。
ひととおり近況を伝え合って、彼女が降りる駅になった。彼女は畳みかけるように別れの言葉を彼にかけた。
今日会えて話せてよかった、あなたの今後がうまく行くように祈っているよ、神の祝福が有りますように、今日は本当にありがとう、また会えるのを楽しみにしているよ
と言いながら、彼女は車両のドアから降りていった。
彼は、そんな彼女をいつまでも見送っていた。いや、その目は、彼女と目が合っているときの目ではなかった。彼女がどこへ向かうのかを確認する目だった。彼は、彼女がプラットホームの階段を登って十分彼から離れたのを見届けると、慌てて車両から降りていった。
彼は彼女を見ながら、階段を登っていった。
彼にとって彼女はどういう存在だったのか。聞くすべがないから想像するしかない。
とても良い先生で、世話焼きで、なにかと目をかけてくれていたのかもしれない。彼が話すとき、少し怯えているような目をしていた(マスクで目しか頼りがないのだ)。彼の自信なさげな落ち着かない様子は、彼女に詳しく近況を知られるのが嫌だったのかもしれない。少なくとも、働いている場所は知られたくなかったから、同じ駅で降りることを知らせなかったのかもしれない。
彼女も、これ以上彼と話をするのが嫌だったのかもしれない。彼との話を打ち切るように、彼にどこで降りるか伝えずに、これが今生の別れと言わんばかりに口上を告げた。
残された乗客はどうしていたかというと、彼が降りて行くのを不安そうに見ていた。同じ駅で降りるがタイミングを失ったものとして見ていたのか、気まずいのかなと慮ったのか、はたまた自分の今を知った者を許せなかったのか。
その後、すぐに車両内の不安な空気は無くなった。皆が自分のスマートフォンを見出したら、それがよくわかる。

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