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腑におちたことの話

父親が死んであっという間に二ヶ月が過ぎた。もう二ヶ月という気持ちも、まだ二ヶ月という気持ちも両方同じくらいある。明日から始まる三月は父親の誕生月だ。誕生日を迎えられなかったなという部分に考えをフォーカスするとまだ少し泣く。

今も事務的な書類が各所から届く。先日は父親が最期を迎えた施設から亡くなるまでの介護計画報告書が届いた。床ずれができてしまったという報告があった。痛かっただろうなと切なくなる。ずっと苦しそうだった。何も食べられずかわいそうだった。でも終わった。終わったのだ。

父親が亡くなるまでの数ヶ月、私は不安で仕方なかった。父親がいなくなってしまう。私は一人ぼっちになってしまう。どうしよう。どうしよう。
夫がいるとか、弟がいるとか、友人がいるとか、そんなことは百も承知だけど、置いていかれてしまう心細さは圧倒的な力で私の目の前を真っ暗に覆った。

だけど実際に亡くなってみたらそうじゃなかった。一人ぼっちにはならなかった。それは夫がいてくれるとか(もちろん彼の存在にはもの凄く助けられている)、そういう話とは別で、父親は居る、と感じるのだ。パッと消えて何もかもなくなってしまったわけじゃない。居なくてもどういう顔をしているか、何を言っているか分かる。スピっぽい話で大変恐縮ですがスピってるつもりはないんですよ。なんか、分かっちゃう。長年の付き合いで。

『在る』なんてすごくあやふやで不確かなものなのだなと肌で理解した。仏教の「空」という考えや「諸行無常」が腑に落ちてしまった。ハナから何も存在などしていなくて、常に同じものなんてないのだ。死は終わりじゃないし、誕生も始まりじゃない。全てただの出来事。一瞬の出来事。

だからこそ昨日から続いている今日がとてつもなく貴重で愛おしい。

twitterの人に「ブログでやれ」って言われないようにアカウント作りました。違うブログで台湾旅行や入院や手術に関してお役立ち情報書いてます。よかったら見てください。 http://www.ribbons-and-laces-and-sweet-pretty-faces.site