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2. Self-introduction(自己紹介)

現在、福島県にある私立高校で教員をしています。…が、まずは「お前は何者!?」という状態なので、自己紹介として「どういう経緯でここに至ったか。」をざっくり書きます。

バスケットボールとの出会い

父が中学校教諭でバスケ部顧問。母は小学校教諭でママさんバレーボールプレイヤー。家には2種類のボール。。。

気づいた時にはバスケットボールをついてました。ミニバスを始めたのは小学3年生の秋。10歳にならないとチームに入部できなかったんです。

部員4人から全国へ

部活動見学に行ったら、先輩は4人でした。公式戦はハンドボール部に協力要請。顧問の先生はバスケットボール専門ではなかったです。

そんな部が2年後、全国大会に行っちまったんですね。

実は、これが初めての全国大会ではありませんでした。中学1.2年生の3月に福島県選抜チームに選出され、ジュニアオールスターという都道府県対抗の全国大会に2度出場しています。ここでの出会いが、次の高校バスケに繋がります。

東北の頂点へ

ジュニアオールスターのメンバーを誘い、県No.1の高校へ進学しました。しかし、伝統を作り上げてきた顧問の先生は、私たちの入学と同時に転勤。…ということで、新顧問のもと新しいチームがスタートしました。

当時の福島県女子の最高位である全国ベスト8を目指し、3年間バスケ漬けの生活を送りました。目標にはたどりつけず…。ベスト8をかけた試合の前半まではなんとかリードして折り返すものの、後半に力尽きるという結果でした。

それでも、東北の頂点に立つことができ、ひとつ胸を張れる結果を残すことはできたのかなと感じています。

こういう結果に結びついたのは、「メンバーが揃っていた」で片付けるのは簡単ですが、チーム内でなんでも指摘し合うチームカルチャーだったからなのかなと思います。叱られましたし、叱りました…特に同級生同士で。文武両道、切磋琢磨という言葉がこの学年にはぴったりです。

目立ってなんぼ

関東の1部リーグにこだわって大学を選びました。そりゃ全国から上手なプレイヤーが集まってきますよね。月間バスケットボール(通称:月バス)で取り上げられる選手と同じチームになるわけです。生き残りに必死でした。

背が高い選手、スピードがある選手、3Pが入る選手、ドリブルハンドリングに長けている選手…。みんな何か一芸に秀でている中で、私は全て並の選手でした。このメンバーの中で、試合に出るチャンスって何?っていう感じです。何で目立とうか。。。

たどり着いたのは、【声】と【ルーズボール】でした。これでコーチにアピールするしかなかったんです。とにかく、声を大きく出して、どんなボールでも頭から突っ込んで取りに行く。そんなことを繰り返していました。

コーチ陣への強烈なアピールが効いたのか、1年生から試合に出場することができ、様々な選手と対戦しました。プレイを学べたのは試合に出れた経験が大きかったからだと思います。

大学3年生の時に、人生で初めての全国制覇(インカレ優勝)を経験しました。大学4年生の時には、関東大学トーナメントのアシスト王、インカレでMIP賞(ファン投票1位)をいただき、個人タイトルを取るという経験もしました。

夢のWJBLの世界へ

WJBLでプレイするという夢がありました。その夢を叶えるために、大学時代に目立ってなんぼのバスケ就活をしたわけです。縁あって、トップリーグの世界に拾ってもらいました。

しかし、入団したチームは1年で廃部が決まっているチーム。そして、目立つことが取り柄のルーキーが試合に出れるほど、簡単な世界ではありませんでした。バスケをしていて、一番辛かった時期です。たくさん怒られながら、たくさんアドバイスをいただきながら、なんとかついていくのがやっとの日々でした。

廃部になったチームは、翌年に新潟へ譲渡されました。そこでも怒られながら、キャプテンを3シーズン務めました。負ける方が多いチームでしたし、日中は高校教師をしながら選手生活を続けていました。地域に支えられ、このチームでは4シーズンプレイしました。

この時期に、バスケットボールをする意味みたいなもをすごく考えたように思います。自分はどういう存在で、どうあるべきなのか、どこへ向かいたいのかというようなことです。たくさんの方々の支えがあったからこそ、夢の舞台でプレイできたのだと思います。

出会いがつながる

そのまま契約更新するつもりで契約交渉に臨みましたが、移籍をし環境を変えるという選択を取りました。何か次の当てがあったわけではなかったです。ただ、自分のチャレンジ精神のみでした。

しかし、移籍先は簡単には決まらず…。2ヶ月の間、定住する家を持たずにジプシー生活をしました。そうこうしているうちに、移籍期限となってしまいました。そんな時に、一本の電話をもらい、所属先を秋田へ移すこととなったのです。まさかの出来事でした。縁もゆかりもないと思っていた地ですが、行ってみると、まさかの出会いの連続でした。

バスケットボール界の社会人ピラミッド構造でいうと、WJBLが頂点であり、その下に社会人地域リーグが存在します。(※ここに入れ替え戦はありません。)このカテゴリーでプレイすることを選択しました。

フルタイムで働きながら、ガチンコでプレイをする。目指すは日本一とWJBLチームへのチャレンジでした。負けることの方が多いチームから、日本一を目指すチームへの移籍。会社員として働くことや世の中の動きなど、いろんな物事を様々な角度から考えた期間です。

そして、チーム内では最年長ルーキーでした。チームとは何か、バスケットボールとは何かを考えながら、実践し、反省し、そしてまた考える。自分たちでチームを作り、自分たちでプレイを作り、自分たちでバスケットをする。コーチ・スタッフ・プレイヤーがともに作り上げるチームでした。いちばんバスケットボールを楽しんだ時期です。そして、勝つ喜びと負ける悔しさを純粋に感じられた時でもありました。

国体優勝、全日本社会人大会連覇を成し遂げ、30歳の時はMVPをいただきました。

まだまだプレイはできましたが、社会人として10年。一つの区切りをここでつけることにします。

選手から指導者へ

両親が教員ですので、幼い頃から教師になる夢がありました。そして、バスケットボールを教える指導者の道も思い描いていました。現役時代からライセンスを取得し、準備はしていました。

ご縁があり、母校ではありませんが、地元の私立高校で地理歴史科の教員をしながら、女子バスケットボール部のアシスタントコーチとして仕事をしています。

高校卒業以来の地元での生活。私自身がロールモデルとなり、高校生や女性指導者に良い影響を与え続ける存在になるべく、様々なことに挑戦中です。

ざっくり…

長くなってしまいました…。ざっくり書いたつもりです。その時々での様子は、またいつか記していきます。少しずつ、少しずつ。

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