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季節の再読

 ある日の晩、顎ひげを剃っているときにふと、一着のサマージャケットのことを思い出した。それは、僕が大学生として一人暮らしを始めて間もない頃に、両親から送られてきたものだった。薄手の白い生地に、水色の細い線が縦縞に入っている。白状すると、若すぎた僕はそれを気に入らず、一度も袖を通すことすらなかった。そして大学を卒業して故郷に戻るタイミングで、僕は無情にも、それをビニル袋に詰めて捨ててしまった。

 そのサマージャケットのことを、なぜか最近思い出したのだ。たぶん、衣替えの季節だからそろそろ秋服を出さなければ…と考えを巡らせているうちに、意識が昔の記憶を引っ張ってきたのだろう。

 しかしながら、ただ例の洋服のことを懐古したわけではなくて、「それを選んでいる両親のイメージ」というのを、初めて感じ取ったのだった。僕の父と母は、ユニクロの店内でさまざまな服を手に取りながら、それを身につけている僕のことを思い浮かべていたにちがいない。いや、今すぐそばに両親がいるから尋ねることは可能だけれど、あえて濁しておく…。僕が彼らの生活から一時的に席を外しても、彼らの方は「僕の不在」とともに暮らしてきたのだろうか、そんなことを、一着のサマージャケットから連想してしまった。

 最近になって、「ああ…」と感慨に耽ることが度々ある。まるで、昔読んだ本をもう一度読み返したときみたいだ。以前にはまったく気に留めなかった部分が、急に輝きを強め、こちらに主張してくる。若すぎた頃の僕は、自分の都合で日々を生き、他者と接してきたけれど、少し歳を重ねたためなのか、家族や友人たちに思いを馳せることができるようになってきた。人生を四季に喩えるならば、僕の季節は夏から秋に移ろいつつあるのかもしれない。新しい季節から過去というページを捲ってみると、鮮やかな発見が飛びだしてくるものだ。

 もう一つ例をあげたい。ある日の仕事帰り、自転車で坂道を下っているときに、なぜか父親のことが頭に浮かんできた。僕にとって父親というのは、生活のすぐそばにいる、うっすらとした憎悪の対象だった。その理由については割愛する。しかしながら、この日、脳内に唐突に現れた父親のイメージは、薄暗い感情を伴っていなかった。数年前のことだが、僕が学生時代というモラトリアムを終えて、ニートとして過ごしていた頃、とてつもない孤独の原因を父のせいだと当てつけていた。ただ、あの辛い時期をいま思い返してみたときに、仕事を見つけられない僕に何ひとつ口を出さなかった父親の余裕に、当時の僕はずいぶん救われていたはずだ。しかしながら、父親に対してそのようにポジティブに捉えることがそれほどなかったので、ビルの谷からこぼれる夕焼けを浴びながら、僕はしばらく戸惑っていた。

 いままで気づかなかった味わいを味蕾が覚えるように、過去の新しい手触りというものを、このところ知りつつある。歳をとるというのは哀しいことばかりかもしれないけれど、ちょっとした面白さも、同時に与えてくれるものだ。記憶という本が厚くなるほど、きっと楽しみは増していくはずだと期待して、今日も眠りにつこう…。