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リバー

 朝からどこか優れないところがあった。

 別段、風邪っぽいとか仕事でやらかしたとか、そういう目立ったものがあるわけではない。だけど、確かな実感があった。シャツのボタンが一つずつ掛け違えているような、悲しいくらいのぎこちなさがあった。

 こちらに向かってくる人を避けたり、何気ない会話に適度な相槌をうったりするような、些細なやりとりでさえ難しく感じる。身体は重たくなり、口はかたく閉じられる。ふと窓の方に視線を移すと、気持ちいいぐらいの青空なのに、心の方は雨降りのときの暗がりに近かった。

 何だろう、この感じは。意識はまっすぐに歩いているつもりなのに、立っていることすら心許ない。まるで川の流れに逆らって進んでいるようだ。どんどん水流に足がとられ、身体には余計なものが纏わりついてくる。調子の狂った歩みは、いっそう僕を疲弊させる。見知った人たちに囲まれているのに、どうしてここまで独りなのか、波音はさっと遠ざかり、静かだ。

 今日は我慢ならなくて、仕事帰りに本屋さんに寄り道した。僕はときどき、現実逃避の目的で本屋さんの本を捲る。窓を開けて、部屋の湿った空気を追い出すように。三十分ぐらい、書棚から別の書棚への行き来を繰り返したけれど、読みかけの本が枕元で待っているのを思い出し、一冊も買わずにお店を出た。

 もう空は暮れていて、街灯の光が道を濡らしていた。肌寒い夜風が自転車を漕ぐ僕を撫でていく。家路を急ぐ人たちで、町はやや騒がしい。獰猛なケモノたちが獲物を狙っているように、無数の自転車のヘッドライトが攻撃的に光っていた。

 家に着き、疲れた身体を布団に遊ばせる。家族と夕餉を済ませても、尚、僕の心は川の底で沈んでいた。お風呂に浸かり、でたらめな歌をうたってみたり、独り言をぶつぶつ唱えてみたりする。そういうふうに、実際に一人で気ままに過ごしてみると、なんだか少し心の足取りが落ち着いてくる。この歳になってもまだ、自分の気分というか、コンディションのようなものはなかなか捉えにくいものだ。また明日も川の方へ向かう。水の流れは僕に味方してくれるだろうか。わからん。とりあえず好きな曲でも聴いて、羽を休ませときますわ…。