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朝顔

 大学生の頃、コーヒーを無糖で飲めるようになった。自分も大人になったのだと妙に誇らしかった。喫茶店で一人、ようわからん本を捲りながらコーヒーカップに唇を当てる。口の中に香りが広がる。ほろ苦いような、ほんのり酸っぱいような、難しい味を愉しんだ。でもそれはただ、僕の味覚が鈍ってきたからなんだろう。コーヒーを飲むことに慣れたせいで、本来の苦みをうまく感じられなくなってしまったんだろう。

 季節は流れて、僕はいま似たようなことを考えている。強くなると言うことは、鈍感になることなのかしら?と。逞ましいと言うことは、心を石に変えることなのかしら?と。

 春、毎度のことながら別れがやってくる。先月末に職場の先輩が退職された。自分にとってはかなり身近な存在だったし、普段からものすごく頼りにしていた。ずっと一緒に仕事ができるとは当然考えていなかったけれど、お別れの日が近づいても全然その実感が湧かなかった。最後の日、先輩の隣に座って雑談をすることができた。その中で「今の立場になってどんどん心が鈍感になって、うまく笑えなくなった」と語っていたのが強く印象に残っている(先輩は職場でリーダー的な役割を担っていた)。

 仕事をしたり人と関わったりしていると、ときどき辛い出来事にぶち当たる。最初の方こそしんどいけれど、だんだん慣れてきて、そのうち些細なことでは動揺しなくなる。そうやって鈍感になることを誰かは「強さ」と呼ぶかもしれない。それと同時に、鮮やかな感情のいくつかを手放しているような気がする。その一方で、ブラックコーヒーのおいしさを味蕾が覚えるように、新たな味わいに出会える予感もしている。寂しさを感じながら、こわがりながら、鈍感さを面白がっている。

 送別のときも涙を押し殺した。先輩がいなくなったあと、きっと僕がその役割を担うのだろうと思ったら、泣くわけにはいかなかった。「なぜ?」と訊かれたら答えるのが難しいけど、気丈に振る舞いたかった。寂しさを小さく小さく折り畳んだ。多めのシロップを注いで飲み干した。先輩に感謝の言葉を伝えて、プレゼントを手渡して、きちんと見送ることができた。年上の同僚が「この年齢になったらお別れにも慣れちゃうのよ」と言っていたけれど、本当なのかしら?それから、恋人とふたり並んで駅まで歩きながら、すれ違う人も気にしないで情けなく泣いた。

 辛い出来事はきっとこれからもつづく。通り雨のように急にやってくる。僕はもう、多少のことでは傷つかないかもしれない。だいぶアホになってるのかもしれない。だからこそ、いま触ることができる感情はしっかり大切にしておきたい。そして、鈍感になっていくからこそ、おいしく苦みを味わいたい。そう思っていくしかないような気がする。