硝子窓

 仕事が終わり、黄昏れる道を自転車で走る。犬と散歩している人たちや、マクドナルドで談笑しながら勉強している生徒たちを横目で見やる。タイヤの空気が緩んでいるから、坂道を越えるのに苦労した。全身が強張った。それから、風に乗るようにゆっくりと駆け下りていく。

 いまの仕事に就いて何年も経つ。ありがたいことに、大きな役割も与えられている。この春からはより一層、肩にのしかかる荷が増えるだろう。求められることは嬉しいし、周りからの期待は実感しているけれど、ときどき息が切れる。引くに引けないところまで来てしまったものだ。

 心の窓に夕闇が忍びこんだ。僕はなぜ、みんなからの期待に応えようとしているのだろう。なぜ組織という機械の部品として懸命に努めているのだろう。それはきっと、空しさや淋しさを恐れているからだ。もしも僕が、社会から着せられた服をすべて脱ぎ捨ててしまえば、無関心という冷たい荒野にひとり放り出されることになる。ありのままの自分では誰からも愛されないと思っているから、どんな期待にも応えたいし、より高い評価をめざそうとする。…でも、これは一体いつまで続くのだろう。いつになれば永遠の安らぎにたどり着けるのだろう。途方のない距離に、ため息が出る。

 ふと思い出して、自分の本棚から一冊の本を抜き取った。近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本で、数年前に友達から貰ったものだった。机に座ってぺらぺらと頁を捲っていたけれど、とある一文が目に止まった。「僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる」。その文が頭の中でひとりでに立ち上がり、育っていくのを感じた。そうか、僕たちは生きていることで、他人に何かを(形あるものも目に見えないものも)与えることができるのだ。なかなか、しっかりとした実感を抱くことは難しいけれど、生きていることや存在することを改めて肯定されたようで嬉しかった。

 ガラス窓が磨かれて、朝日のシャワーがまっすぐに届く。忘れそうになっていたけれど、大事なのは他者からの評価でも自分のスペックでもなく、まず何よりも「生きている」ことだ。青い考えかもしれないけれど、生活が送れるというそれだけで、もうすでに満たされているような気がした。自分に貼り付くラベルなんて、もうオマケでしかない。そう思ってみると、ついシリアスに考えすぎていた頭の中に、ふんわりとした余白が生まれる。難しい日々がこれからも続くけれど、まずは生きることだ。自分のことをケアしながら、自分の窓を拭いながら、これからも暮らしていく。