見出し画像

『リヴァース・ショット』をnoteに掲載した理由。

あれは 今年の5月頃だったか
スマホのGoogleアプリのホームページに
私の意志などに関係なくアルゴリズムで掲載される
記事の中に 蓮實重彦先生が ちくま書房の
月刊書誌に連載中のエッセイが現れた。

私の学生時代の8ミリ映画を 東京新聞の
夕刊で 嘗て 身に余る賛辞を頂戴した
先生である。

そして蓮實重彦先生は 私が高校時代から
私淑した 『ガルガンチュア物語』の翻訳をされた
渡辺一夫先生の愛弟子であられる。
渡辺一夫先生の『偶感集』が 私が通っていた高校の
図書室に在ったこと自体奇跡だったが
『きけわだつみの声』を編纂された渡辺一夫先生の
思考実験たるエセイア(試論)を美しい日本語で
綴られる『偶感集』を16歳ぐらいに出会えた事は
仕合わせだった。
その渡辺先生が 著作集の月刊報に
「映画ばかり観ているH君」とフランス留学中の
蓮實重彦先生を心配しつつ 諫めつつ
フローベル研究をされることを静かに応援されていた。

蓮實先生の『凡庸な芸術家の肖像』
正式なフローベル論文ではない。正式というか
学術論文ではない。フローベルの親友で
『感情教育』にも出てくる フォトエッセイストになる
人物を主役にしながら フローベルが
『サランボー』というポエニ戦争の小説を書いていく
いきさつを 凡庸ならざる物語として上梓された。
まるで長谷川伸が『上杉太平記』で
主人公の上杉鷹山について詳細を物語るのではなく
鷹山の臣下たちの失敗や挫折を描き それを鷹山が
乗り越えていくことは 史実を並べるだけで
鷹山の葛藤や苦渋を作家の推測で描く事を排除し
そうすることで 逆に 上杉鷹山の藩主として
類いまれなる謙虚さと 君主として民と臣下を
生かし 活かすために 我が身をさて置く
ハードボイルド大河小説に仕上げた構成に似ていた。

そして

蓮實重彦先生が ちくま書房の月刊書誌に載せたエッセイは
ある日の夕方 先生がご自宅に戻る道すがら
小学校高学年ぐらいの少年に 道を尋ねられる小景で始まる。
その少年が 「近頃 耳にしたことないような
美しい日本語であった」事に先生は 驚かれる。

そして その少年は先生の道案内に丁寧に感謝を述べて
夕暮れの街へ走っていく。その後ろ姿をしばし眺め
先生は 夕焼けの空に正体し 
「ひょっとして あの少年は この世の者ではなかったのじゃないか?」
という突拍子もない想いを抱く。
「いやいや 私の他に 居合わせた 一人の青年が 少年に 
自分の行き先の途中だから 一緒に行こうと 親切を示していた。
その申し出を彼は恭しく会釈をして断って 走って行った。
ただそれだけだ。
そう想いながら 夕焼けの美しさに 見とれてもたらされた
突拍子もない思いに なんとなく いい気持ちになられた。
という エッセイというか 志賀直哉の掌篇小説のような文章であった。

私は その一文を読んで 脳内に興奮物質の異常分泌が起こっていた。

ひょっとして 蓮實先生 私の『勧誘者の名』をお読みくださったのかしら?

私の小説では 最近耳にした事がないような美しい日本語を喋ったのは
老人で その老人が驟雨の直後の雲間から出現する夕陽を背にして
突拍子もない話をするのでは あるが・・・・。

『巨乳といふこと』と『安眠屋』を全文掲載して
しかも『勧誘者の名』や『20××年の召集令状』と
私の学生時代の映画2本の題名を そのまま小説の題名にした
空中都市物語も noteの載せられたので 私は満足していた。
生きた爪痕は ちょっぴりだが残せた。

さぁどうしようか? と思っていた矢先だった。
早速したことは 蓮實重彦先生の『ショットとは何か』という
去年発表された映画に関する書物を拝読させた頂く事だった。
読み進めていくうちに 私は 学生時代 蓮實重彦先生に
ハガキ一本の御礼状すらお出しせずに済ませてしまった
自分の不躾さに さいなまれる思いがした。
イメージフォーラムのかわなかのぶひろさんに伺えば
蓮實重彦先生のご自宅ではなく 東大か立教大学の研究室の
住所ぐら教えもらえたはずなのに・・・。

次にしたこと。それが『リヴァース・ショット』を
noteに載せることにしたのである。
この小説は まさに 私にとって ショットとは何かを
映画でなく 小説で試みた 拙い小説だった。
そして この小説の献辞として ゴダールが定義した
リヴァース・ショット~切り返し を掲げ
小津安二郎監督のリヴァース・ショットこそが
ゴダールの定義した 映画において カメラがとらえ
フィルムに焼き付けられ 編集されて 上映された 映画は
表層として 物質的に 光という粒子と音という波動で
誰かが 耳目で受け止め 脳内で再生される事で完成する。

映画は 上映フィルムには存在しない物語すら
 誰かの脳内で醸し出してしまうのだ。

表層として受け取った幻影が 我々の脳内では 小津が
描いた東京物語以外の原節子演じる紀子の切なさや苦悩の姿が
上映されることのない映画とし 我々の記憶装置に
発生していることもあるのだ。
 
そして 9月上旬。
連載3回目ぐらいだった。
ジャン=リュック・ゴダール監督が
スイスの自宅で 安楽死された報道を目にすることになる。

この星に生まれてきて ゴダールの映画を観ることができて
私も 仕合わせだった。

アラン・ドロン主演の
『ヌーヴェエルヴァーグ』 どこかで上映しないかな。
今なら あの映画の意味を多くの人が共感すると思うのだけれど。

私の掲載している小説 ちょんまげアルザンス をお気に入りくださって サポートしてくださる方が いらっしゃったら よろしくお願いいたします。 または お仕事のご依頼なども お待ちしております♪