見出し画像

短篇小説『平成観音功徳記』連載1回め

薄暗い朝が来た。一番鶏の鬨の声などしなかった。
ただ不図目が開き 目に入ってきた薄暗さに動悸を覚えた倉橋錦司は 幾ら早寝をしても、飲めぬ酒を呑んで夜更かししても 朝が来るまで何もない漆黒の闇と沈黙の睡眠から遠ざかっていた。
つい数週間前までなら朝の目覚まし時計が鳴るまで疲れ切って夢も見ず、
パッと目が開き 布団を片付け、厠に行き用を足してから顔を洗い 
口を漱ぎ小さな仏壇へ向かう。
仏壇の水を換えてお燈明に火をともし 線香をつけ数珠を両手に絡ませて
正座し日蓮宗の開経偈を唱えると深く息を吸い込んでやおら観世音菩薩普門品を偈頌だけでなく頭から読誦する。とりあえず小さな経本を両手に乗せ胸のあたりに掲げているが もう本文とてチラリと確認するだけで丸暗記していた。この儀式を終えると 簡単な朝食を摂り、歯を磨き 寝る前に用意していたローテーションどおりのスーツとシャツ、ネクタイを急ぎ身に着けて後は時計と睨めっこしながら家を出て 最寄のバス停に向かい関東北部に在る自宅からバスで二十分のところに在る会社へ向かう。
会社に着けばタイムカードを押し、着席してパソコンを開き 
同僚たちと挨拶し 首尾よければトイレで出すものを出して
経理の仕事を続ける。昼飯は会社近くの昼には焼き魚定食まで喰わせてくれる田舎の喫茶店で済ませ、夜は偶に経理課ではない 同じ会社の工場で働く同僚と夕飯代わりの酒席に付き合ったりもしたが 概ねバスを1ツ前で降り、自宅の最寄バス停にはないコンビニか弁当屋で惣菜を買い求め 
家でご飯を炊き孤独な夕餉を済ませ 朝の食器と一緒に夕餉の食器を洗って 後はすることもなくテレビを観てうたた寝し せり出した腹を叩き 
日曜日や祝日以外風呂には入らないが 冬場は寒さ凌ぎにどうしても
平日、週に三日は風呂へ入り 歯を磨き 寝床を調え 
また仏壇の前で正座して朝と同じように読経をする。
眠くなるまで寝床で仏教関係の書物を読む。
といってもせいぜい休日に月に一度浅草の観音様に観音経の偈文を写経したのを納めに行って次の新しい写経一巻購入する際に貰う浅草寺の薄い冊子を何度も読み直すのが日課だった。
時折煙草を喫うが 酒をチビリチビリとやる癖も無かった。
女遊びをするほど生来性欲も在る方ではない。
五十七歳になるまで吉原で遊んだのはせいぜい十回ほどで 
五十を越えると自慰すら全くしなくなり 
俺は いつ死んでも悔いはないなぁと想いながら 
せいぜい定年退職してこの親から頭金を出して貰った小さなマンションの
1室のローンを完済したら 浅草寺とは言わないが 田舎の寺で得度し仏門の端っこにでも置いて頂いて 重く病むことなく 一人であの世に逝ければと観音様に祈り願うばかりの人生だった。

 北関東の地元の商業高校を卒業して、食品加工工場の経理課に入り、農家の次男坊としては幸先良かったものの 珠算と暗算が自慢の青年から瞬く間に頭頂部の毛髪をすっかり失って、定年間近となっていた。
幾度か見合いし結婚に至るような事もあったが 地味で無趣味なゴツゴツとした背の低い男になかなか嫁が来ないまま独り身を続けてきているが 
数週間前に起きた いきなりの早期退職という名の首切りに遭ったときには 嫁がいたらばさぞかし どやされ 子でもいれば 明日から何して食わせようかと思い悩んで今以上に生きた心地がしなかっただろうと
未婚で老いる身の上を寧ろ正解だったと思うのだった。 

多少上乗せの退職金でローンを完済したところで月々管理費や毎年の固定資産税も払えば 貯えなど数年で尽きる。
経理仕事しかした事が無い、経理係長で終わった経歴に見合う再就職先などあるわけもない。
いや そんな贅沢を言わなくても 退職した翌日からハローワークや農協へ出かけて経理畑の仕事を探しては 履歴書持って蒼ざめていた。
だが 勧められるのは日雇い仕事と農家の手伝いぐらいだった。
自動車免許を持っていても運動神経の無い危なっかしい下手な運転しかできず 車もついぞ持たなかったし 
第二種免許を貯金のあるうちに取得してとか重機の免許にしようか
と考えては頭を抱えていつしか朝晩の観音経読誦すら忘れて 
泣き崩れたり万年床になった布団に頭から潜り込んでは
社長や たしかめ算もせずに表計算ソフト頼みの経理仕事を平気でする契約社員への悪口雑言を喚き散らしたりしていた。
 あぁ今日もこれからも この繰り返しか。
しかし。
ゴミ出しを怠ったつけで部屋に漂う悪臭にもいよいよ嫌気がしてきた。
天井の薄暗さにカーテンの隙間から入り込む陽光が次第に
光線の輪郭を明瞭にしつつある。数週間前ならとうにバスに乗っている時間になっているらしい。
じっと目を硬く閉じ 相変わらず40年近く勤め上げた会社の冷淡さと
小言ばかり言うだけの小さな婆様になっていた母親が特養老人ホームで誰にも看取られずに脳溢血で去年亡くなり、さらに数年前 農家を棄て離散した兄一家の事もないまぜになって錦司はわなわなと哭いた。
なんて運の無い一家だったんだろう。いったい何の祟りだ?
兄の家の子供たちは錦司になつくこともなく いっぱしの不良になり東京で愚連隊になっているらしい長男と 
母親、つまり錦司の義理の姉と共に姉の実家がある山形へ行った長女は家出して行方知らずだが どうせ母親と同じ水商売でも何処かでしているだろう。
それにしてもあの義理の姉と自分の母親との壮絶ないびり合いも辟易したが その揚句おふくろが逃げ込んできた独身次男の錦司の家で始終小言を言い放ち貯め込んだカネを持ってサッサと特養に入ったのも今にして思えば
「オッカサンあんたはやはり賢かったな」と 哭き終わると呟いていた。

洗顔し口を漱ぎ 久しぶりに仏壇の前に正座して
今は亡き両親のために如来授量品偈頌を読んだ後 
観世音菩薩普門品を全文読んだ。未だ諳んじている方が多かったので少し ホッとした。
散らかったものを片付け シャワーを浴び 髭を剃り ゴミ捨て場に溜まったゴミを棄て軽く部屋の掃除をした。
それでも未だ昼過ぎぐらいだったので錦司はバスに乗り
会社とは逆の最寄の鉄道駅に向かい そのまま浅草に出た。
春まだ浅い桜の蕾も硬い浅草寺に向かう前に駒形堂に行くと 示現祭の日和だったので ありがたいご本尊を拝して 心ばかり浄財をし、本堂へ。
本堂の広間に上がり2時の法要に侍って読経した。
「どうか私を仏門にお加えください。どうか私を得度させてください」
そう念じながら禿げた頭頂部をのぞけば殆ど白髪だらけの頭を
広間の床に額を擦りつけていた。
それなりにカネが懐中にあったので 本堂を出ると久しぶりにオフクロが
大好きだった大きな海老の天麩羅が二本のった蕎麦を食うか 靴屋の2階にある喫茶店の洒落たチキンバスッケトでも食べて帰ろう と決めた。
独りで大きな海老の天麩羅蕎麦を喰っていると目の前にオフクロが現れてきそうで 錦司は伝法院通りから浅草公会堂の脇へ出て靴屋の2階に在る
喫茶店『銀座ブラジル』へ行った。
チキンバスケットと卵焼きのサンドイッチも注文し
サンドイッチの方は土産にしてもらった。
ちゃんと珈琲豆を挽いたのを飲むと むしょうに「生きているってのは いいな」という言葉が湧いてきた。
電車に乗り夕方近くの空(す)いたバスに乗って家路に着く。
 郵便受けを覗き くだらないダイレクトメールやチラシをふんだくるように取り出し2階の部屋に向かう階段を勢いよく駆け登った。
やっぱり観音様だなと錦司は思った。
体の動き方が違う。
2階に住んでいるのに必ずエレベーター使っていたもの。
そう想いながら錦司は薄暗い廊下に漸く光が灯り自分の部屋の前に進むと
いきなり足元に灰色の毛むくじゃらの生き物が絡み付いてきた。
錦司は大きな鼠に襲われたと一瞬恐慌に襲われたが 
よく見ると濃い灰色をした猫だった。
大声を上げそうになった途端にニャァァと一鳴きしたので
なんとか五十男が悲鳴を上げずに済んだ。
「なななんだおまえは それでも猫か・・・」錦司は両手をサンドイッチの袋と郵便受けのゴミに塞がれながら
漸く鍵を出し足元に纏わりつく猫に注意しながらドアを開けたが 
そっと開けたつもりのドアの狭い隙間から灰色の猫は猛烈なスピードで走り抜けて行った。
「おいこら!」錦司は結局大声をあげることになった。
ドアを閉めて猫を追っかけると猫の姿はなかった。動物を好きではなかったが猫ぐらいとっつかまえて玄関からおっぽり出してやると息巻いて 台所にサンドイッチを置き、郵便受けのゴミどもを荒々しくゴミ箱に打っちゃると逃げ込んだ猫を探した。狭い家の中を10分ほど探したが姿は何処にも無い。押し入れを用心深く探っても元々襖の戸はきっちり閉めてあり、
幾らなんでも猫が初めて入りこんだ家で器用に襖の戸を開けて入り込むとも思えなかったが そこにも猫はいなかった。
台所のシンクに置いたサンドイッチが心配になり 錦司は振り返る。
ニャアニャアといわゆる猫撫で声とやらをしてみたり 
チュウチュウと鼠の鳴き真似もしたが反応は無い。薄気味悪い感じがしたが トイレや洗面所にもいない。風呂場になぞいるわけもない。
天井に猫が張り付いていたら厭だが それでも恐る恐る注意深く見上げてみた。狭い居間の小さなテーブルや椅子に猫が居た形跡もなく 居間から続きの寝間に在る仏壇前の座布団の下まで何度もめくったりしたが 
確かに脱兎の如く駆け込んだはずの灰色の猫は煙のように消えていた。 「いったい なんだったんだ」
やや呆気にとられて錦司はコオトを脱いで 衣装箪笥にしまった。
そうか此処かとも思ったがこちらの戸も閉まっていたし覗き込んでも無駄だった。腹は未だ減っていなかったが 浅草の喫茶店で買ってきた薄い卵焼きを何層かにして バターの香りがするオムレツのようなのをトーストしたパンに挿んであるサンドイッチを少し温め直して さて インスタントコーヒーと共に食べるか戸棚で見かけたチキンブイヨンの固形スープを湯で溶いてみようかと考えを巡らしていると 猫騒動のことも 何だか楽しい感じがしてきて つい微笑んでいた。
微笑むことなど忘れていた数週間、いや その以前だって
去年オフクロが突然亡くなった後は テレビで莫迦なお笑い番組を観ても
苦笑いしてすぐチャンネルを変えるか電源を消してしまっていた。
だが今自分は 確かに微笑んだ。ニッコリしたよな。
変だな 苦笑いはこんな後味じゃない。
クソッタレという一言が追っかけ口を突く。
そして次に彼は胸や腹を揺らして大笑いしていた。
今朝まで哭いていた自分がとりあえず嘘のように鎮まったようだった。
猫探しもついでに続行しつつ 錦司はテレビでニュース番組を流し、
郵便受けに溜まったゴミと一緒に捨ててしまった薄っぺらな夕刊を
居間に在る食卓に広げた。こんな新聞もう取らなくていいな。
と呟くと再びゴミ箱に戻した。独り侘しい夕餉だが 
こんな豪華なディナーは珍しいと鼻歌まじりに呟き 
湯を沸かし古い固形スープを飲みながら 温め直したサンドイッチに舌鼓を打った。実のところ彼が3食喰ったのも少なくとも二週間ぶりだったのだ。インスタントラーメンかコンビニ弁当を昼間食べると夜は不安で胸がドキドキし、飲めぬ酒をチビチビやると 眠気が一時的にやってくるが うたた寝をして夜半に起きてしまえば 腹が鳴っても布団を頭からかぶって目を瞑り、ガタガタ震え胃の辺りがシクシクと痛み 
腹を抱えて泣いているうちに朝が来ていた。
そんな日々から少し抜け出した感じがした。
あぁこれが 観音様の功徳かと思った。
錦司は明日から何をしようと考えるのをやめた。
ただ明日起きたら布団をあげよう。風呂にも入ってみよう。天気がよければ洗濯し 布団だって干そう。大いに満腹になりなんとなく寛いだ気分に誘われて酒がもたらす陰気な睡魔とは違う
陽気な眠りへの誘いが微笑かけてきた。食器を片づけ 眠い目を擦りながら歯を磨き パジャマに着替えちゃんちゃんこを羽織って仏壇の前に座り 
数珠を鳴らし 観音経偈頌を唱えた。
観音様が恐れを掬い取ってくださる。そう念じながら唱えると 
ウッつらウッつらとして白河夜船を漕ぎ出した。
南無観世音菩薩と唱えつつ寝床へ入った。彼の想念には既に闖入した猫など欠片ほど無く、ただ深い眠りへとゆっくりと沈んでいった。
 
 夢など見ていなかった。自分の鼾で目を覚ましたわけでもなかった。
物音がしたというより不図 気配を感じて目を開けた。
暗闇がただ茫々と視界に広がるだけで無防備だった。
だが彼の目の前には猫がいた。猫だと分った瞬間 自分の胸の辺りで前足に顎を乗せてウトウトしている猫が闖入者であったことを思い出し、
ガバっと跳ね起きる はずだった。
しかし声もでない 体も動かない。金縛りか?南無観世音菩薩と唱えてみた。
すると猫が目を開けた。にゃあと言わず「起きたか」と言ったので 
跳ね起きた。
バネ仕掛けの玩具かなにかのように驚愕という名の生存本能が 
従来己が認識している以上の身体能力を発揮させていた。錦司は布団から飛び出し体を丸め縮こまり部屋の隅で震えだしていた。
猫が喋った。いや錯覚だ。空耳だ。
震えたまま恐る恐る体を伸ばして部屋の電灯をつけた。
猫も驚愕してさぞかし震えているか 背中の毛でも逆立てて戦闘態勢を整えているだろうと予測した。しかし 錦司が観たのは猫が欠伸をしている姿だった。そして猫が欠伸をおえると見る見るうちになで肩の小さな体から
灰色の人間らしい手足がニョキニョキと伸び出してきた。
まるでこの世のモノとは思えない怪奇な様子を目の当たりにし 
錦司は反射的に枕を武装手段なのか防御装置だかなんだか判らないが
掴み胸高に構えた。猫はグンニャリと毛皮だけになり 
それを片足の指先で引っ掛けヒョイと上へ蹴上げ、
手でキャッチした灰色の西洋人が銀色の全身タイツのような衣類をまとって錦司の方をジロリと凝視していた。ハウドユウドゥと錦司が言いかけた時 「おう ぐっすり寝てたのに起こしてすまんな」と
西洋人風体の大男は猫の毛皮を銀色衣服の中へねじ込んで
「まぁ 座って 話そう」と長い脚をX字に交差させそのまま垂直に
腰を下ろし着座した。震えは止まらなかったが これは夢を見ているだけだと自分に言い聞かせて錦司は正座した。
「ボクは見ての通りの宇宙人だ。正真正銘の異星人。
名前はグレイとでも呼んでくれ。異星人が拵えたサイボーグ、アンドロイドとでも思っていいよ。どっちにしろ この地球という名で君らが呼んでいる惑星の住民よりは科学が遥かに進んだ 宇宙における知的生命体が居る惑星からやって来たわけだ。日本語だって喋れるぞ。猫にだって化けられるぞ。な 君らの科学技術じゃこんなことすらできないだろうフフフ」
まるで漫画だ。いっそ猫型ロボットでどら焼きでもお土産に持ってくりゃ
可愛いのにと言い返そうとしたが 夢の中で変に会話を試みようとしている自分に違和感を覚えた錦司は 
ただ 「へぇ 何という名の星からいらしたんです?」と 
どうせ夢見の中の漫画映画だと高を括って訊いてみた。
灰色の異星人は唇を動かさずに耳の奥へ鋭く斬り込んでくるような音波を発した。
そして「正確には そういう名だけど君らには聞き取れないし聞き取っても音として再生もできないさ。気にしないことだ。それよりも君にちょっと手伝ってほしい事があるんだよ」と異星人が拵えたアンドロイドだかサイボーグは如何にも人間らしく振る舞っていた。
手伝う?俺たち地球人より賢い奴らが何を手伝わせたいというのだ。
漫画やおとぎ話だとどうなるんだっけ?こういう展開は・・・。
錦司はだんだん恐れがなくなり 結構落ち着いて考えながら相対していた。「手伝う?未だあなた達よりも遅れた科学技術しか持っていない我々が 
ですか?」
持っていた枕を短い太腿に縦に置き換え前屈みになって訊き返した。
異星人はニヤリとした。上目遣いに錦司を見詰めながら
「 すっごく簡単なアルバイトさ。君お得意の観音経をひたすら唱え続けてほしい。ただそれだけ。
特に ネンビーカンノンリキ ゲンジャクオーホンニンってところを 繰り返し繰り返しやってほしいんだ」 
錦司は異星人が観音経を知っているので
ますますこの夢の中の漫画映画でビクビクする必要がなくなった気がした。そして灰色の大男が口にした『念彼観音力、還著於本人』の意味を思い出していた。
つまり南無観世音菩薩と唱えその観音の徳に縋り念ずれば 
呪いや毒薬やらを仕掛けられても、危害を加えようと急襲されても 
観音の徳に縋って念じている者は それを跳ね返しそのまま仕掛けた本人に還る。つまり殴りかかった自分の拳を自分の顔面だか腹に 喰らうことになるわけだ。
観音の徳に縋り念じる者は無敵だともいえる。非武装なのに最強ともいえる。実際こんなことが出来れば軍隊など持つよりも観音経を読誦する者を揃えた方が軍事費も大幅に削減できる。錦司はいよいよ落ち着いてそんな事を思いめぐらしていた。我ながら夢見の中でなかなかしっかりと考えているので 愉快になってきていた。
「お廉い御用です。そんなことでよろしければお手伝い致します」
錦司はそういうと足が痺れてきたので膝を崩し胡坐をかいた。
「そうですか。ありがたい。事態は緊急を要しておりまして早速ですが出掛けましょうか」
銀色の全身タイツのような衣装をまとった灰色の肌をした西洋人外貌の大男は流石に異星人が拵えたサイボーグらしく精巧にできていて垂直にギュンと伸び上がってそのまま直立してみせた。
へぇ2メートルはあるな こいつ。錦司は感心していた。
「今から すぐにですか?」見上げつつ言う。
「そう願いたい。着替えなら船内で適当に見繕ってください」
錦司を見下ろしつつ異星人は 又は異星人製のサイボーグはのたまった。
宇宙人の葬式にでも呼ばれる得度もしていない贋坊主のアルバイトなんて
ハローワークに幾らか通っても探せないな。そんな軽い気持ちで立ち上がった。枕の代わりに仏壇の小さなあずき色をした浅草寺の経本と数珠を手に取った。夢の中なのに妙にリアルに経本の手触りや数珠の絡み付きをいちいち触覚しているのが気になったが 
次に彼が顔を上げ振り返ると 既に彼は自分の部屋に居なかった。
薄暗い部屋には壁一面にモニターが埋め込まれ、その前にはコントロールシステムとでもいうのかもしれない 小さな突起物が配置された楕円状の卓が在り、異星人が椅子らしきモノに腰かけて卓上の装置やモニターを指先確認でもするかのような仕草をしていた。そして振り向くと
「 じゃあ其処に着替えを用意したから着てみて。気に入らないって  
言われても君の体のサイズに合うのって殆ど無いの。
まぁパジャマの上にさ そのローブでも羽織ってよ。夜中で少し寒いところへ行くから。それでも直ぐ温かい部屋へ移動するから大丈夫ですよ」 
灰色の肌の異星人が指さす方に置いてあるローブを錦司は手に取った。
軽くて薄いコンビニで売っている急場凌ぎのビニール製のレインコートのようだったが あんなゴワゴワした感触などなく ふんわりとしいていた。
色は半透明の白なのだが どうも玉虫色にも見えた。
驚いた事に腕を袖に通すといつの間にか錦司の体に合わせてフィットしてくる。フードを被ればビニールとは大違いの優しい肌触りがしてガソゴソしなくて快適だった。流石に足元はかなり丈が余って引き摺ってしまうが 
少し動いてみると軽いので足元に纏わりつくことなく 
裾を踏んづけられない限り ひっくり返る心配もなさそうだった。
錦司の用意ができると グレイは念のためにと薄く色が入ったゴーグルを錦司の眼鏡の上から覆い被せた。
「ま 風が強いから これで眼鏡も吹き飛ぶ心配もないさ」
そう言って錦司を続きの部屋へ行くように手を広げ
「どうぞ あちらへ」と言う。錦司は暗がりへ進む。持ってきた数珠とあずき色の観音経経本を片手に持ち 俄かの読経僧をアルバイトしに行く贋坊主。変な事を思いついて見ている夢だと夢見の中で自分を冷めた目で眺めていた。
すると グレイが猫の毛皮を取り出し足元に置くとその中へ沈んでいく。
猫も灰色がかった毛並だ。猫皮に収まるとチャックなど見あたらなかったがあの大きな異星人が体長四十センチほどの猫になり 
「とりあえず抱っこしてくれるかい」と猫なのに日本語で喋った。
錦司は相当重いかもしれないので しっかり腰を下ろして抱き上げた。
だが予想に反して重さも猫並みになっていた。
「観音経を読む際は膝の上に乗っていただく恰好になりますけど いいですか」と錦司は猫姿になった異星人に訊いた。
灰色の猫は「オーライ」と応えた。そして次の瞬間、錦司は猛烈な冷気を足の裏に感じた。金属の板の上に裸足で立たされていた。ゴーグル越しに見えたのは闇に浮かぶワイヤーが交差し 頭上ではグルグルと矩形の金属製の板が廻っていた。
「軍艦の甲板だ。そうかスリッパとか履かせなかったか!すまん」と異星人が声をかけてきた。 
そして 「とりあえず観音経偈頌を読み始めて」と命じられ 錦司は贋坊主よろしく読経をはじめた。
「もっと大きな声で」そう抱いている猫に変身した異星人に言われたので 声をはりあげた。すると外国語で錦司に向かって怒鳴る声がした。猫に変身した異星人がそのまま歩いてデッキの脇にある通路へ向えと言うので歩き出す。するとピシッという鋭い音が足元でした。
「兎に角 一心不乱に親の葬式だと思って何度も読む」と少し大きめの声で命令されたのでそうした。
足の裏が冷たくてそれを忘れるためにも読経に専念し
 速足で通路へ向かうと 先ほどしたピシッという音が数発連続した途端 背後で叫び声がした。
「いいかい 振り向いたら駄目だ!一心不乱だ。集中集中!」 
そして「其処の階段を下ろう」胸に抱いた猫殿から矢継ぎ早に指令される。階段を下ると足の裏が漸く冷たさから解放された。
そのまま突き当りまで進み今度はエレベーターに乗ることになる。
地下2階まで降りると前方から迷彩服を着た数名の男達が銃を構えて怒鳴った。
錦司は ヤクザの葬式かと訊こうと思ったが銃を構えている男達が外国人なので声も足も止まった。
「オイ!おっさん ネンピーカンノンリキゲンジャクオーホンニンだけ一万回唱えろ」と猫から怒鳴られ錦司は我に返り
「念彼観音力 還著於本人」と大声で唱えるというよりヤケクソで怒鳴り続けた。すると目の前の並んだ数丁の銃口が火を噴いた。
「ギャアッ!」と錦司が叫ぶ前に目の前の男達が頭や足から夥しい血飛沫を上げて崩れ落ちていた。
錦司は何が起こったか理解できなかったが 
「オッサンいいぞいいぞ その意気だ そのまま進軍だ 」と励まされ 
これはどうせ夢だろう?それとも映画の撮影?
錦司は 生臭い血の匂いに一瞬息を止めたが 
「オッサン 唱えるのをやめたら あんたも実際あーなっちまうぞ 
死にたくなけりゃ命がけでネンピーカンノンリキゲンジャクオーホンニンを繰り返せ」その声が鋭く錦司の耳で唸り 
次々と現れる軍服姿の射撃手たちが目の前で自分が撃った自動小銃の弾丸に体を蜂の巣のようにされて血を吹上げ即死していく。
何なんだこれ! 錦司は銃声の轟音と外国人たちの叫びが 断末魔の雄叫びが 夢見では なく実際起きている現実だと思い知る。
うずくまって泣きたかったが 猫の姿に変身している灰色の肌をした異星人製サイボーグは進軍を錦司に命じ続け 
いよいよ ある部屋の前に辿り着く。背後で自動小銃の連発音が鳴り響き 次に間を置かずに絶命の声が3つほどしたあと 
「このドアは 私が開ける」 猫姿の異星人製サイボーグは声を低く太くして言う。猫はじっとドアを睨みつける。すると何かがコトリと落ちた音がした。
「さぁ入ろう。片手で押して入るだけさ。そしてオッサンは そのままネンピーカンノリキだぜ」 その声に従がって錦司は自棄のヤンパチ何が何やら判らん 臆病風がいつの間にか逆風となって人生において今までに無いほど腹の底から声を発し どうせ俺はもう発狂したのだ、狂うことに開き直った。ドアを開けると赤いペルシャ絨毯と黄金や宝石が散りばめられた室内装飾と家具がキラキラと輝いていた。そして 豪華な食事が ところ狭しとひしめき合って置いてある長い食卓に向かって寛ぐスーツ姿の男達に混じって 世界大宗教の法衣をまとった者たちや日本の山伏が頭に乗せるような小さな黒い四角い帽子を頭に据えたダークスーツの男が 長い顎鬚を強張らせて
闖入者の方を見ていた。錦司に背を向けていた、司祭がまとうローブ姿の男は ガツガツと肉の塊を手づかみで食べていたが 
念彼観音力 還著於本人と狂ったように叫ぶ闖入者の方に振り向き 剣呑な目つきを据えた。
そして猫に姿をやつした異星人製サイボーグは「 ラマダンだというのに贋坊主 そんなにガツガツ焼肉なんぞ喰らっていいのか」と挑発した。
すると日本語で叫んだはずなのに 男は肉を投げ捨て、席を立つと迷わず
錦司の方へ歩み寄り いきなり腰に帯びた剣を鞘から抜くと銀色の氷のような刃を錦司の頭上に向かって振り降ろした。
しかし次の瞬間 その刃を持った腕は撥ね返り
その反動の腕力を以て自分の耳の裏辺りを突き刺した。
ゲッ 司祭の法衣を纏った男はそう発すると
今度はグイグイと自分に刺し込んだ刃を真横に力いっぱい引いた。
片手は自分の片手を敵としてその猛然たる動きを止めようとしていた。
目の玉は飛び出しそうになり充血し 
そして男の首から上は自らの刃で自らの腕力で斬り落とされた。
その姿を後ろから見物していた全ての者達は事の次第を理解できずに ざわつくだけだった。しかし今や首なし人間になった同胞だか仲間だかが 床に倒れるとざわつきは 怒声と叫喚に代わり 数発の銃声が聞こえると
その次の瞬間には銃を発した者がその銃弾に額や心臓の辺りを撃ち抜かれ
声も上げずに斃れた。多くの者は 物陰に隠れ 警備する屈強な兵士たちに攻撃を命じる。兵士たちは命じられるまま 自動小銃やピストルを錦司に向かって発射した。だが次々と自分の撃った銃弾によって絶命しただけだった。斃れた兵士の銃を手から外し錦司の方に向かって欧州人らしい銀髪の紳士が 狙いを定めて1発発射すると彼の両眉の間に赤黒い銃痕が
次の瞬間口を開け 目を見開いたまま仰け反り斃れた。
遂に小型バズーカ砲を持った兵士が現れたが
その攻撃は寧ろ発射した兵士だけでなくその場に居合わせた武器を持っていなかった者達にも死、又は重傷を負わせる結果をもたらすだけだった。 
錦司はその光景をなるべく見ないようにしていた。しかし激しい銃声音や爆裂音 それに伴う震動や血の匂いや火薬臭が生々しく五官を支配していた。泣きながら念彼観音力 還著於本人を唱え続けた。
「さぁ回れ右だ そしてそのまま 来た道を戻ろう 」という猫姿の異星人の指令に従った。そして再び錦司の足裏は凍てつく甲板の上に在った。
風が物凄い音で吹いていた。「よっしゃ」猫がそう叫ぶと 錦司の頭上に円い発光物体が現れ 猫を抱いた暗殺者が 音も無く発光物体へ吸い上げられていった。
砲弾を撃ち込もうとした兵士を軍艦の司令官が砲撃を制止した。
おそらく彼は その攻撃によって甚大な損失を被るのは 自分たちであることを理解したのだろう。司令官は英語で兵士たちに
「 死にたくなかったら撃つな!」 「撃てば死ぬのは撃った奴だ!」と叫んでいたのだった。(つづく)

私の掲載している小説 ちょんまげアルザンス をお気に入りくださって サポートしてくださる方が いらっしゃったら よろしくお願いいたします。 または お仕事のご依頼なども お待ちしております♪