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短篇小説『平成観音功徳記』連載2回目

錦司が目を覚ましたのは 自宅の寝床だった。未だ部屋は闇だった。
錦司は自室の寝床である事を確認して悪夢から漸く解放された安堵感を得ていた。 
視線が胡坐をかいているグレイにいくまでは。 
しかしグレイは実在していた。長い脚をX字に曲げて畳に尻を着けて 
錦司の方を見ていた。
「どうも お疲れ様! お蔭で厄介な戦争屋を一掃することができた。
これで第三次世界大戦なんてのは人類史に起きなくなるだろう。
あなたは たった一人で偉業を成し遂げたってわけです」
異星人製サイボーグたるグレイスキンは 流暢な日本語でそう言う。
「猫の姿で喋った方がお気に召しますかね」
悪戯っぽくニヤリとしてみせた。
錦司は 上半身を起こして応対しようとしたがどうにも体が鉛のように重くて動けなかった。
「私がした事は殺人になるのですか」
錦司は仰向けのまま目だけグレイに合わせて言った。
するとグレイスキンは
「いいえ あなたは 念彼観音力の威神力を示しただけですよ。
彼らが死んだのは自業自得です。
彼らはあなたを殺そうとして自分を殺しただけです。
宇宙の法則では
自分がやったことは全て自分に還ってくるというのがありますのでね。
その宇宙の法則をあなたの読経によって強固に
この星の上で発揮させただけです。
私がした事と言えばあなたをボスボラス海峡まで空飛ぶ円盤で運び 
某軍事大国の艦船へご案内し あの秘密部屋のドアの鍵を電磁波で開錠し 世界中を恐怖に陥れている狂信テロリスト集団の本当のリーダーに向かってアラビア語で挑発する言葉を吐き捨てた事ぐらいです。
この強行手段を計画したのは 私のボスたちです。
ただどうしても この地上時空で生きている人が 参加してくださらないと 我々のボスたちは 宇宙の法則
『他の惑星の住人たちの行為行動に過剰に介入することを禁じる』
という一項に抵触してしまうので あなたを選んだというか 。
まぁ 最も平和的な方法と申しましょうか・・・・。
それでも あなたとしては 選ばれたと言われても 
と仰りたい気持ちは充分理解できます。あなたが この出来事を忘れたいとお思いでしょうから 
ちゃんとその為に忘却処置を致します。記憶の抹消をします。
我々が慰謝料的なモノをお支払すると言っても 手立てがないので 
今週の金曜日抽選のロト7の一等当選番号を さっきタイムワープして確認してきましたので それをあなたの左の掌に刻印しておきました。
今日これから夜が明けると水曜日ですから まぁ近くの売り場で早々に 
三百円分一列 並べて買ってください。
それが 暗殺者の報酬・・・・ごめんなさい いえいえ もとい、
精神的外傷に対する慰謝料としてお受け取りください。
まあほんの数億円ですけどね。あと300円は 申し訳ないですけど お支払ください。そして大切なことなので 覚えておいてほしいのは 
2列同じ数字で買うのは 駄目ですよ。未来を変えるというか結果が変わってしまうのでね。2倍の金額にはどうせならないですし。
そしてめでたく あなたが当選結果をご覧になって万歳なんてされて
興奮して寝付けないかもしれない その夜中にでも猫の姿をして現れます。 
その際は 今度は許可を得て入室致します。
その節、今しがたご覧になってしまった阿鼻叫喚の記憶をスッカリ消しに伺います。今日と明日は 少しばかりPTSD症状がもしかするとあるかもしれません。ちょっと我慢してください。
下手に医薬品を服用されると 記憶抹消処置の効果が低下してしまいますので。つまり眠り薬は控えてください。お酒ぐらいでなんとか。
又は夜通し観音経を読誦される、写経をされる など如何でしょう」 
妙に丁重な話しぶりだった。錦司は あぁぁ夢じゃないんだ 夢じゃなかったんだ と呟いているうちにもう目を開けている事ができない睡魔に襲われていた。そして昼近くまで泥のような眠りに嵌っていた。
起きた時 錦司は左の掌を見た。薄茶色の数字が7つ横一列に印字されていた。手書きでなく印刷されていた。その数字を念のためにメモ用紙に書き留めてから錦司は洗顔をした。だがトイレの後 うっかり石鹸で手を洗ってしまった。しかし7つの数字は消え落ちてしまわなかった。
錦司は どうせ買うなら 観音様の近くでロト7を買おうと思いたち 
2日続けて浅草に向かう事にした。既に水曜の午後2時だった。
 左の掌に書かれた数字が気になり バスでも電車でもつり革につかまるのは右手にした。念のため数字を写し取ったメモもポケットに入れてきた。
良く眠ったはずだが乗り物に揺られていると睡魔に襲われ 
時折 銃声の乾いた音や銃口の発光がフラッシュバックしたり 
錦司を狙い撃ちにしようとした西洋人の老紳士が自分の眉間を
結果として自分で撃ち抜いてしまう瞬間を追体験し
動悸がし ハッと目を覚ました。

 浅草の観音様は混んでいた。中国語や韓国語が 飛び交う中で 西欧人と出遭うと無意識に凝視してしまい、睨み返されて 
目を伏せ足早に本堂に向かった。
とりあえず観音様に 
「念彼観音力のお蔭さまで命を救って戴きました。ありがとうございました」とブツブツ小声で囁き 南無観世音菩薩と33回唱えた。
隣で手を打つ愚か者を見る。中国人だろうと思ったら 日本人でありそれなりの恰好をした夫婦だった。神道の御宮と仏教の寺ですべき礼法の違いすら知らなくても、妻帯し平日にお参りに物見遊山で訪れることができる普通の仕合せを享受できている同胞に羨ましさと嫉妬を感じることもあるけれど その日は なんとも思わなかった。ただチラリと薄目を開けて見ただけだった。数珠を紺色のダウンジャケットのポケットに仕舞い 本堂を出て 
錦司の足は公会堂近くに在る 昨日も寄った 喫茶店『銀座ブラジル』だった。しかし 定休日。仕方なく 田原町方面へ歩いて 母が大好きだった
蕎麦屋『尾張屋』に入り 天丼を注文した。
今日はカツサンドを食べたかったなぁと想いながらも そっくり返る大きな海老の天麩羅が2本 飯の上に乗っているのを目の当たりにすると夢中でかきこんだ。上品な御吸い物を啜ると 目の前に小さな自分の母親が天麩羅の海老の尻尾をチュウチュウ意地汚く吸っている在りし日の姿が浮かんできて 突然涙腺が緩んだ。涙が細い眦からツーッと流れた。あらかた食べ終わり、涙にむせびそうになるのを堪える為に 丸めた背を一度伸ばした。
すると店の壁に飾ってある古い写真が視線上に現れた。
撮影するカメラを胡乱な目つきで見据え 中折れ帽をかぶったまま
この店の天丼を喰いかけている眼鏡の老人が気になった。誰だっけ?
錦司は妙に気になり お茶を注ぎにきた店の女性に写真の老人について訊いた。 
「あぁ 永井荷風さんという小説家ですよ。常連さんだったそうです」 
そう言われると思いだした。
母親にあの写真の人は宮澤賢治さんかと訊いて
「違うよ。宮澤賢治さんはここじゃなくて池上本門寺さんの近くの天麩羅蕎麦だよ」と言われたことを思い出した。そんな記憶をぽつねんと思い浮かべると そうかいオッカンあれは賢治さんじゃなくてナガイカフウいう小説家だとよ と心の中で呟いて 天つゆで濡れた飯をたくあんで平らげた。

宮澤賢治という名を思い出せば そこにまとわりつく 錦司の淡い初恋の人が ゆらりと現れる。
中学時代の同級生で際立った美少女が図書室で借りてきた『銀河鉄道の夜』を夢中で読んでいた姿だ。その少女が借り終えた直後 錦司はその本を借りた。思えば薄気味の悪い行動をしたものだが その本に自分とは棲む世界が違う 同級生というだけで話したことも殆どない美少女の微かな香りでも嗅ぎ取ろうしていたのだと いじましい自分が情けなかったけれど 
お蔭で錦司は宮澤賢治を知り、その著作を読むことで生き延びることが出来た。その宮澤賢治の大好物は天麩羅蕎麦で そこへサイダーを奢ると 
天にも昇る気分になると日記だかに書き残していたのを 
あの初恋というか一方的な憧憬の的であった美少女の実際の顔つきが
薄らボンヤリしてしまうような年齢に達した頃に知った。
そしていつも不機嫌な顔つきの、小さくて気の強い母親に命じられて浅草へ年に何度か共に参詣するたび母親から
「いったい幾つになったらお前は結婚して まともに生きられるようになるんだい。観音様に何十年もお願いしているってのに・・・」
そんな愚痴を聞きながら食べる天麩羅蕎麦も懐かしいだけになるのだから 不思議なものだよ オッカサン。錦司は そう心の中で呟いた。
少し冷めた茶を飲み干し 勘定をすませ 田原町の宝くじ売り場へ向かった。 掌にある数字を慎重にマークシートの枠にちびた鉛筆で塗りつぶし たった一列分書くのに5分も時間を使ってドキドキしながら抽選券を手にした。書き込んだシートも 異星人の忠告「同じの二列は駄目だよ」を思い出し 下手に売り場に棄てて途方もなく面倒臭がりの者に運悪く自分が書き入れたシートで抽選券を買われては元も子もない。申し込みシートも胸ポケットに仕舞って 観音様の御本堂にもう一度お参りして 帰途に着いた。
帰宅ラッシュに出くわさない時間帯の電車に乗って
殆ど座ってうつらうつらしていた。
往路の車中で見舞われたフラッシュバックもなかった。
家の中で落ち着くと 写経をしようか 読経しようか迷ったが とりあえず風呂にでも入り 今夜は腹が減ったら買い置きのカップ麺で済まそうと風呂場に向かった。するとドアホンが鳴った。
訪問者は 出奔して母親の葬式にも来なかった兄だった。
家の中に入れるのも躊躇われたが 仕方ない。唯一の肉親だ。
粗暴でヤクザな、丸刈りの太った男が不愛想に上がり込み ジロジロと部屋を見渡し 両手を ヨレヨレのコールテンのズボンのポケットに突っ込んだまま がに股で肩をいからせて挨拶もせずに歩きながら
「おまえさ オフクロ死んで遺産とかどうしたんだよ」と 切り出してきた。金目当てか。
錦司は予め想定していたことがこれから起きるんだと思うと背筋が震えた。昨夜の銃撃戦ですら感じなかった恐怖が一瞬湧きあがった。
更に ヤクザに成り下がった兄は
「おまえ クビ?リストラされたって」
と蔑むような目つきといやらしいつり上がった嗤いを口元に浮かべていた。勧めもしないのに兄は 仏壇のある錦司の寝間でもある部屋に胡坐をかいて 仏壇の前に置いてあった座布団を勝手に引き摺って尻にあてた。
「灰皿くれよ」そう言い捨てると上着のポケットから取り出した煙草の箱とライターを抛りだし一服しだした。錦司も煙草を喫うがその部屋では喫わなかった。茶の用意などする気も無かったが 灰皿だけは持っていった。
人として こうやさぐれてしまっては灰皿を持っていかなければ畳に火のついた煙草を押しつけたり 下手をすれば仏壇の線香立てを灰皿代わりに遣いそうだったからだ。
「少し都合してくんないかな 百万ぐらい」
兄は言いたいことだけ先に言った。錦司はそう言って探りを入れて 
その倍どころか10倍の金額を引出そうとしている兄の魂胆が観えた。
「どうしてそんなに必要なんだい」とボソリと応えた。
「俺だって遺産を貰ったっていいだろう?それにおまえは リストラで余計に退職金とか貰うんだろ なぁ 百万でいいや」笑ってさも下手(したて)に出てやっているという感じだった。 どうせ厭だと言えば獣じみた声を張り上げ飛びかかり殴りつけるつもりだろう。 錦司は兄の目を見返すのを禁じて瞑目し、怒りで震えている五臓六腑を鎮める為に 口を真一文字に硬く食いしばり 心の中で そして腹の底から南無観世音菩薩と念じた。
すると頭の中というか閉じた瞼の裏に見えたのは あの壮絶な銃撃戦の光景が蘇っていた。錦司はひたすら念彼観音力 時悉(じしつ)不敢害(ぷっかんがい)という観音経偈文の邪鬼を退散させる文言を繰り返してみた。
すると兄の吠えるような声が止んだ。
そして錦司が目を薄っすら開けると 兄が「頼む!百万が無理なら五十万でいいや。くれとは言わないよ 貸してくれよ 今な俺にようやく運が向いてきてよ ある奴からちょっとカネ出して一枚加われば 倍にして返せるあてがあるんだよ」
そう言って正座して両手を合わせて拝むような恰好をしていた。
どうせ返す気も無いのは分っていた。だが 以前のように暴れ狂ってでも
金を引出そうとするような振る舞いをしなかったのが不思議だった。
錦司は 黙って仏壇の小さな引出しから 郵便局の通帳と印鑑を取り出して 「おふくろが 遺した全財産だ。三十万円あるよ。戒名代に十万ばかり遣ったけど 今度の一周忌のために遺しておいた。これで勘弁してくれないか。一周忌の法要も俺が一人でなんとかするから。それに 俺の退職金なんてこの部屋のローンの残金払ったら一年も暮らせない程度しか出ないんだ。
年金が出るまで何して働こうかって毎日思案しているところさ。
それにその肝心の退職金は 未だ入金されていない。手元には数万円あるけど それで今月は食いつなぐしかない。アルバイトでもして日銭稼ぎに出るつもりだけど あんちゃん 御免な。これで今日は勘弁しておくれよ」  錦司はそう言って兄に向かって土下座した。獰猛な兄に暴力で抵抗しても暴れるだけ暴れられてしかも 財布にある数万の金も抜き取られ 歯の一本も無くすような怪我まで負わされる始末を覚悟しながら 我ながら信じられないほど落ち着いていた。 
すると 兄は 「・・・・そうか それじゃ仕方ねーや。未だ退職金でないんだ。しょうがねー会社におまえも奉公しちまったもんだぜ。じゃ これは貰っていく。すまねーな。頼りがいの無い兄貴でよ。でも 儲けたら必ず返しに来る。一周忌も盛大にな 儲けたら派手にやって・・・」
と言いかけた兄は意外にも泣き出していた。
そして仏壇の方を向いて手を合わせ金色のりんを鳴らした。そして母親の遺影を入れた小さな写真立ての脇からはみ出していたロト7の申し込みシートを抓みだし
「 こら錦司 こんなもん買って当たるかよ。バカだなまったく 
駄目な兄弟だぜ」と 
仏壇に置かれた母親の写真に向かって喋りかけていた。錦司は兄がロト7の申し込みシートを持っていきはしないか心配になった。しかし乱雑にその紙切れを仏壇の中に置くと兄は
「おまえ夕飯まだか?」と立ち上がり様に言う。通帳と印鑑を汚いブルゾンの胸ポケットにねじ込みながら 「なんでもいいから喰わしてよ」 
予め覚悟していた悲惨な光景とは違っていたので 錦司は頷き
「買い置きのカップ麺でいいかい コメはあるから炊くと三十分はかかるよ」そう応えると 「カップ麺? 情けねぇな。 まいいや 東京へ戻るまで腹がもてば」 駅に向かうバスの最終時刻を訊き、「それじゃますますカップ麺でいいや」 鼻で嗤って食卓の椅子に座り煙草をふかした。慌ただしくカップ麺を二人で啜った。食べ終わると又一本煙草を喫い 兄は立ち上がり錦司が居間の小さなソファに架けていたダウンジャケットのポケットを探り出した「なな何してんだいあんちゃん」 錦司は ポケットに仕舞っておいた七つの数字を念のため書いておいたメモを思い出し狼狽えた。
すると兄は「 おまえ煙草吸わないんだっけ? もう俺無くなっちゃってさ 1本恵んで貰っておこうと思ってな」そういうと何かを捜し当てたという顔をして「財布があったぜ・・・電車賃貸してよ」そう言って勝手に財布から一万円札を抜き取った。そしてそれをくしゃくしゃと丸めてブルゾンのポケットに片手の拳ごと突っ込んで もう一方の手を挙げ「じゃあな ごちそうさん」 そう言いながらドシドシ床を踏み鳴らし玄関に向かい やがてドアを荒々しく閉める音が聞こえた。まぁ一万円で済んだか。有り金抜き取らないだけよかったと思うべきかと考え ため息をついた。しかし ダウンジャケットのポケットを探っても財布を覗いてもあの七つの数字をメモした紙切れが見つからなかった。「兄貴め!」そう錦司は叫んだ。頭にきてダウンジャケットを床に投げつけた。仏壇の申し込みシートと抽選券は無事だった。左の掌に印字されていた数字と同じ七つの数字が並んでいた。
あのメモはどうしたんだろう・・・。錦司は風呂に入る予定を止めて部屋中を探しまくったが無かった。予想外にも暴れなかった兄が不気味だった。
もしかすると兄は異星人から自分がロト7の当選番号を教えて貰っていたことを知っていたのかもしれないと悪い方へ考えてしまう。
だから今夜来たのか?兄の顔を思い浮かべるほど怪しかった。
錦司は ちくしょうちくしょうと繰り返し 異星人から禁止事項として聞かされていた「同じ数字で二列とか複数購入しないでください。一等は1口当たるので 2口買うと 金曜日に違う結果が起きる可能性が大きくなるので気を付けてください」と述べる表情を思い出して頭を抱えていた。
兄が何の意図も無く紙切れを握り、何処かでポケットからポロリと落としたり、取り出しても気にもかけず丸めて捨てる姿を想像し続けた。
それでもウツラウツラしていると 当選発表を見てガッカリしている自分の姿やどういうわけだかヤクザな兄の方が 当選して大喜びして 自分に札束見せびらかして愉快そうに笑い 自分を蔑んだ目つきで見下し 
「このまぬけ」と言ってはゲラゲラ笑う姿を夢見し 怒りと哀しさで布団を撥ね退けていた。寝不足のまま錦司は 朝起きて 観音経偈を読誦した。
目を瞑ると銃撃戦が蘇る。恐怖を追体験してしまうので声を張り上げていた。兄への悪しざまな憎しみを少しでも減滅したいと思うのだが 抜き取られた一万円が口惜しいやら 惨めな気分やらに襲われた。寝不足でボーっとしているのも癪にさわって 体を動かすことにした。トイレを入念に隅々まで掃除した。さらに 母親の遺影の前で 昨晩兄に一周忌法要の為に遺しておいた金を丸ごと渡してしまった事を詫びたりした。法華経の如来寿量品偈頌を経本頼りに読むことにした。
オッカサン そっちは宝の樹が華々しく、天人が常に溢れ 妙なる伎楽が流れていて、曼荼羅の花が雨の如く降り注いでいるかい?美しい浄土を描写した一節を読みながら母の笑顔を思い出そうとしたが 目を吊り上げて
「間抜け!オタンコナス!」という顔しか思い出せなかった。
ため息ばかりの一日を過ごしてしまった。夜になり、兄のお蔭で昨日入りそびれた風呂を沸かして 湯につかり ヤケクソ気味に極楽極楽と唱えるように呟いた。 十日ほど入っていなかった風呂から上がるとサッパリして手足も伸び伸びした感じがした。パジャマに着替えて早々に寝支度して 本棚に経理と法華経関連以外の本として唯一並んでいた宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』を寝床で読み始めるとうつ伏せのまま寝込んでいた。淡い恋心を懐いた少女の日に焼けた芳しき香りが厭な出来事を忘れさせてくれたというより
久しぶりの入浴で体も一息ついていたのだろう。
そんな夜の沈黙を ドアホンの機械音が引き裂いた。鎌首上げて寝ぼけ眼の錦司は慌てて室内機の受話器を取った。「どちら様で」と訊く。口の端が涎で濡れているのをパジャマの袖で拭い もう一度来訪者の名乗りを促した。受話器は無音のままだ。悪戯かと思いつつ兄かと訝り、玄関まで行きドアの覗き穴から様子を窺った。姿は何もなかった。空耳かと寝床へ戻ろうとした途端 ドアの施錠が勝手に開きドアノブが下へ降りた。ドアが外へ少し開くと下の隙間から毛むくじゃらな物体が勢いよく錦司の足元を過ぎ去った。
その瞬間 錦司は今一番会いたい人に会える歓びで心が踊った。日に焼けた芳しき香のする美少女ではなく 灰色の肌をした異星人、正確に言えば異星人製サイボーグが猫の形をして来訪してくれたのだ。もう会えないと思っていたあのグレイスキンに! 既に猫から大きな灰色異星人姿へ成り変わって 食卓の椅子に腰かけて錦司を待ち受けていた。
「あぁぁ とんでもないミスをしてしまった」 グレイスキンは錦司を見詰めてそう言い
「この間教えたロトの数字、あれ一週間前の当選番号だった。これから夜が明けた 金曜の夜に抽選される数字は これだよ」と錦司の手を引き寄せこの間と同じような掌の場所にグレイの目から発せられるビームによって7つの数字が印字された。痛くも痒くもなく、熱くも冷たくも無かった。そういえば風呂に入った時 この間の数字がいつの間にか消えていたのを思い出した。
「いやはやなんとも面目ない。私としたことが ついウッカリ日付を間違えてしまった」 グレイスキンは もう猫皮を取り出して帰ろうとしていた。錦司は 掌の数字を眺めつつ 親切な異星人製サイボーグに ありがとうと言った。
「どういたしまして。又夜中に来ます。今度は直接ワープするから寝ててください。今晩は未だ起きている時刻だからちょっと猫の形をしてきたけどね。他の人にサッシあたりからビームに乗って侵入しているところ見られるとその人探して後で記憶から抹消するのが面倒くさくてさ。今の時間帯だと帰りも猫になりすまして公園の木陰辺りであなた達がUFOと呼ぶ超小型タイプで母船に戻る方がいいんだ。(グレイスキンは両手の指を使って超小型サイズを示していた。猫がギリギリ乗れるフリスビーぐらいの楕円を示していた )当選確認したら銀行は月曜でしょ 当選手続きだとかしにいくの。その後ね 今度はさ ハワイで会いたいわけ そのハワイで会うスケジュールとかを伝えに来ますよ。簡単なアルバイトだから 今度は! 血飛沫とか銃弾とか無いですから 愉しいバカンスしながらハワイの2島で観音経を読むだけ!」 芝居がかって大袈裟な身振り手振りでのたまう。
「本当に ハワイでお経を読むだけですか?」
錦司は どうして本職の僧侶にこの前の仕事といい依頼をしないのかと続けて訊ねてみた。グレイスキンは こう応えた。
「本職だから観音様に愛されているとは限らない。以上!」
ニヤリと笑顔を拵えてから異星人製サイボーグはあれよあれよと猫の形になり ドア開けてよ と猫のまま ニャアニャア言わずに日本語で錦司に言う。錦司は「ということは 私は観音様に愛されているということになるですか?」と猫に問う。灰色の毛並みをした猫は「そういうことでしょう 当然」 と澄ました感じで応えた。目を細めにし、首をスッと上げ、前足も後ろ足も馬がギャロップしているようだった。いろいろ訊きたいところだが 間抜けは自分だけじゃなかったという安堵と観音様に愛されているというくすぐったい 気分に満ちて錦司は恭しく猫殿の為にドアを開けて 「それでは又 お待ちしております」と言った。猫はニャアと猫語で応じた。
 
 錦司は又 浅草まで出ることなく バスで最寄の駅から急行が止まる大き目の駅で降りて 宝くじ売り場で左手の掌をこそこそ見ながら抽選券を買った。思えばこの間は観音様の近くで購入したからこそ 兄が来てなにやらしでかしても こんな具合になっているのかもしれないと思いつつ 帰宅し 夜を迎えた。観音経の読誦をした。テレビでも観るかとごろ寝していると 電話が鳴った。こんな時刻にかけてくるとしたら 兄しかいない。そして兄だった。居酒屋から電話してきたらしくうるさい騒音を背景に兄はこう言った。
「バカヤロウ なんだロトなんか当たるもんか!おまえがオフクロの写真の裏に大事にしまってたのを見たからよ ポケット探った時 偶々握った紙切れ見たら7つ数字が並んでいたから俺も900円分買っちゃったよ 大外れ 
金返せバカヤロウ!」 酔って機嫌がいいらしい。
錦司も やはり あれはグレイが間違えて教えた数字だったと安堵した。
兄には余計なことを言わず 言いたいだけ言わせて電話を終えた。そうかあの野郎 やっぱりしでかしていやがった!舌打ちしつつ 錦司は朝刊が来るのを待つために寝ることにした。朝の5時には郵便受けに新聞は配達される。未だ5時間はある。つまらないテレビを消して 布団に入った。
もしも4億とか当たっていたら 何をしようかと想像しているうちにたいしたことも思いつかぬうちに寝入っていた。そして新聞が届く前にグレイスキンは 錦司の寝床近くに座っていた。錦司は眠りの浅瀬に辿り着いて  
そろそろ朝刊か・・・と思った瞬間 ニャアニャアとグレイスキンが猫の鳴声を真似していた。「当選確認した?」は日本語で喋った。
錦司はそうかハワイの件を伝えるって言っていたなと 身を起こし
「おはようございます。これから新聞で確認します」そう言って寝床を出て新聞を取って 寝間に戻り眼鏡をかけ電燈をつけ 仏壇の経本の下に入れておいた抽選券と新聞の片隅に並んでいる7つの数字を照合した。掌に印字されていたのと照らし合わせてもよかったが やはり抽選券で確かめた方がと思ったからだ。左から1個ずつ読み上げて確認しようとしたが その必要はなかった。記憶したつもりもなかったが ひと目で「当たってた」と呟いた。異星人製サイボーグは新聞を錦司の手から取り上げ左から読み上げた。錦司は確認のため抽選券を片手に摘みもう片方の手の人差し指で1つずつ
グレイの発する音と自分の口で出す音に合わせて一致しているのを指で触って確かめていた。
足元から震えが昇ってきて7つ目の数字を確かめた頃には歯の根が合わぬほど震えていた。「あたあたあたあた」と言いながらその場に座り込んだ。「おっ!一等賞金8億円だって。キャリーオーバー出てたんだねぇ おめでとう!」 異星人のくせにキャリーオーバーまで知ってるってどうなんだろうと錦司は思ったが 震える全身を何かに託さないといられず やおら異星人製サイボーグに抱きついた。予想外にヒンヤリしていて 人間とさして変わりない弾力性のあることを後で思い起こすが 
この際は「ありがとうございます。ありがとうございます!観音様 ありがとうございます!」と叫ぶばかりだった。
 漸く人心地ついた錦司を前に グレイはまんざらでもない様子で 1か月後の5月20日からハワイへ行く事を錦司に伝えた。条件はオアフ島ホノルル空港で初日にハワイ島のコナ空港へ入り、ワイコロアビーチのヒルトンに
2泊し その後ホノルルに戻ってワイキキビーチ沿いに在るホテルに少なくとも2泊、計4泊6日が必要条件で もっと他の島めぐりとかしたかったらワイキキ2泊の後に好きなだけ行ったらいいと言う。ちゃんとメモして置くよう言われたので手帳に書いた。
そしてグレイスキンは 「猫になって戻った方がよさそうな時刻になってきたな 公園辺りで帰還致すか」  
朝ごはんでもどうですかと錦司は社交辞令でなく心から勧めたが 
グレイスキンは 「サイボーグだっていうのに?」と笑って応えて
「じゃあ次はハワイ島のワイコロアのヒルトンホテルで会いましょう!
あのさ 今日は土曜日だけど 東京の旅行代理店とか行ってみたりした方がいいかもね 8億円あるんだからさ ビジネスクラスで往復すればいいよ 今度は愉しい仕事だから」
そう言い終わると猫の姿になり錦司がドアを開けると 早朝の街へ消えた。

「そうか・・・でも何で今回は この前みたいにUFOで一瞬にしてハワイに連れて行ってくれないんだろう・・・」錦司は 8億円が当たった興奮が引けた後 そう考えたが おそらく今度の仕事はあの血生臭い凄惨なものじゃないからだろうと思う事にした。海外旅行なんてそう言えば57年生きてきたけど一度も行ったこともなかったわけだし、こないだのボスボラス海峡は旅行の物見遊山じゃない。ただあれが人生初の海外旅行なんだな 俺にとって。しかも誰もが乗れるわけではない空飛ぶ円盤に乗って。 
錦司は仏壇の前で手を合わせ 母親に心の中で事の次第を呟き感謝した。  勿論 観音様にも重ねて重ねて感謝をした。
 グレイスキンはあの凄惨な銃撃戦体験を忘却処置するのではなく カネの心配を 一掃させる宝くじ当選体験とハワイ旅行によって忘れさせるようにしていたのだったが 錦司はそのことに 気付きもしなかった。
 
近所の大きなショッピングモールにも旅行代理店は出ていたが 何処で兄に遭うかもしれないので 錦司はグレイスキンのアドバイス通り東京に出た。勿論浅草の観音様に御礼のお参りをして、思い切って銀座から東京駅あたりをめざした。なぜならあの物騒な男、実の兄がもっともうろついていそうにない街だからだ。そして八重洲口の地下で大手の旅行代理店を見つけ 
パンフレットだけでもと 入ると どういうわけか 
女性社員に「ご予定はハワイでしょうか?」と訊かれたので ギョッとした。「どうしてお判りになるので」と訊ね返すと 
「ハワイのパンフレットをお持ちになってらっしゃいますので」とほほ笑んだ。 
今の自分は いつでも宇宙人だか異星人と遭遇してもおかしくないという
心境なのだとつくづく思った。そして手帳を見ながら 個人旅行プランで
スケジュールを作って貰った。ホテルや日程を指定したので女性社員はパソコンと睨めっこになり 無言になることも在ったが 錦司に
「あのぉ お部屋のグレイドが1泊 現在の円ルートで5万円になる日が 
ハワイ島のワイコロアヒルトンなんですね ワイキキの方は一泊 3万円なのですが どう致しましょう」と言う。
錦司は今なんで自分は未だ嘗て無い高額な支払をしなくてはならない旅行に出ようとしているのかと ややパニックになりかけた。
しかし 南無観世音菩薩と心の中で唱えて気を落ち着かせ 
「とりあえず スケジュール重視でプランを立ててください。おカネのことはプランを見て考えたいと思う」と自分でも意外なほどスラスラと言ってのけていた。そうだ俺は観音様の御用をするために伺うのだ。ただ遊びに行くわけではない。約束の日程だけは守らねばならないのだから 一泊5万円だって仕方ないじゃないか そう旅行代理店の女性社員に言いたいところだったが そうとは言わず 
「できれば往復ビジネスかファーストクラスがいいなと思っているのですがね」と注文を追加した。女性社員は パソコン画面から視線を外し 錦司を見た。
「あぁ ハイ分りました。 ビジネスクラスの方がお席も取り易いです」 錦司は頷くだけだった。そして総額八十万円の4泊6日ハワイ旅行のプランが出てきた。頭金を入金しての予約は一週間後までにということだった。
「当社のプランが お気に召したら ご連絡ください」 女性社員のつくり笑顔に見送られて錦司は外へ出た。そして彼が向かうのは浅草に在る『銀座ブラジル』だった。  
今日こそはカツサンドだと決めて出てきていた。使い古したユニクロ製のビジネスショルダーバックに安手のハーフコオトを羽織り 60がらみの禿げた冴えない男がビジネスクラスでハワイに行けるわけがないとあの娘は思っているだろうけど 俺はあのプランがお気に召したぜ。心の中で呟き 
グレイスキンを真似て口角を上げてニヤリとしてみた。

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