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今、ここ、ってよく聞くけどさ。 伝道者の書3章1〜8節「受肉した歩みへの招き」

誰かの人生と自分とを比べてしまうことはありますか?

もちろん、それが不毛であることはわかっています。
しかしどうしても頭をもたげてくるのです。
「私はどうして、あの人のようでなかったのか。」
「もっと、こうあるべきはずだったのに。」


私たちは自分がどのように生まれるか、コントロールしたのではありません。
やがて迎えることになる死についても、同様です。

私たちはイエスがすでに十字架によって
悪への勝利を確かなものとされた、この地に生かされています。

しかし完全な勝利をとられる再臨はまだ来ていません。

だからこの地上にあって、
様々な人生の季節を私たちは味わいます。

神の子どもとされた者として生きるとは、
それらのあらゆる人生の季節に対して、
心を上にも下にも揺らされないような態度を取ることではありません。

受肉されたイエスご自身がそのような歩み方ではなかったからです。

「永遠」という時を超越した視点を持たれる神であることを捨てて、
イエスは限られた時間を生きる私たちと同じ人間として受肉し、
歩まれました。

嘆くこと、沈黙、憎むのに時があり、
踊り、話し、愛するのにも時があります。

傷んでいる人と共に泣くのにも、
共に笑うのにも時があります。

イエスは神が与えてくださる
その「時(人生の季節・時期)」を大切に歩まれたのです。

来週、私たちは
タイの少数民族であるクム族の人々へ遣わされている宣教師を迎えます。

クム族の人々が歩んでいる季節を、
ゆっくりと着実に一緒に歩みながらその働きを進めておられます。

周囲からは、理想とされるような別の宣教師像があったかもしれません。

しかし、クム族の人々とゆっくりとでも、
共に歩むことを召しとして受け取ることから、
キリストの香りが確かに放たれています。

困難な季節にあって、
「自分はこうでありたい」という思いを手放して
、神の力強い御手の下にへりくだるなら(Ⅰペテロ5:6)、

神ご自身が想像をはるかに超えた大きな愛で
私たちを受け止めてくださったことに気がつくでしょう。

それぞれが今歩んでいるこの季節を、
一つの賜物として受け取ることができますように。

その時期にあった適切な歩み方を知ることができますように。

そして隣人もまた、
自分とは異なったそれぞれの季節にあることを覚え、
互いに愛し合うことができますように。

私たちはそのような受肉した歩みへと今日も招かれています。

すべてのことを働かせて益としてくださる神に信頼し、
神のちょうど良い時に実を結ばせてくださることを、待ち望みましょう。

本日の説教を振り返るために

1. あなたは今どのような人生の季節の中に置かれているでしょうか。


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