17 優れた俳優が五感を磨く本当の理由とは?
有機的行動でなければ意味が無い
「先ほどの演技では、何が抜けていたから、涙がこぼれなかったのか?なぜ、五感の訓練が必要なのかをお話ししましょう」
「お願いします!」
「その人物は、なぜ、涙がこぼれる予定だったのでしょう?」
「失った家族を思い出したからでした…」
「なるほど、上手く行った時は、内面で家族を見るという行動をして、涙が流れたのですね?」
「はい、つい失った家族を思い出していました」
「先ほども同じ行動をしましたか?」
「はい、そのつもりです」
「だと思います。しかし、行動は内的なものにせよ、外的なものにせよ、正確に行う必要があります」
「正確に…」
「確かに、あなたはそれをしたつもりでした。しかし、その行動を本当にしたとは言えなかったのです」
「…そうでしたか?かなり正確に思い出せたとは思うのですが…」
「そうなんですね?」
「ええ、1人1人の顔まで見えてました」
「素晴らしいですね。しかし、恐らく本当にしたときと何かが違っていたのではと思います」
「もちろん、さらに詳しく思い出そうとすればできるとは思いますが…」
「いえ、写真のような記憶が欲しいわけではありません。本当に思い出しているかどうかは、その見ているイメージの正確性を問題にしているわけではありません。ただ、それについては後でもう一度お話ししましょう」
「はい」
「もう少し場面について聞かせてください、このシナリオを知っているのはあなただけですから。安堵を感じた、そして、その後に、家族を思い出した…その間に、何か他にしたことがあったのではありませんか?」
「えーっ…わかりません。かなり正確に繰り返せたと思うのですが」
「では、質問を変えましょう。あなたの演じた、その人物は、なぜ、そのタイミングで、家族を思い出す事になったのでしょう?」
「…?」
「私が見た演技では、シナリオでそうなっているから…という俳優側の理由しかみえませんでした。つまり、役の人物がそのタイミングで家族を思い出す動機が正当化されていないように感じました」
「…そう言われてみれば、そうかもしれません…」
「ということは、「家族を思い出す」は単に段取りになっていませんでしたか?」
「段取り…」
「私たちがしなければならないのは単なる行動の羅列ではありません。一つ一つの行動が次の行動の原因になって、つながりを持って互いを成り立たせている有機的な行動をしたいのです」
「有機的な行動…」
「その行動の動機は生まれてきたのか、単に記憶のリストをなぞったのかが問題です。実際にその場面がうまくいった時は、家族を思い出す必然性が何かしらあったはずです」
「ええっ…なんだろう?」
「例えばですが…あなたは安堵した後、その安堵した身体に身を任せて、視線を変えたり、姿勢を変えたりは、しませんでしたか?」
「!…ああっ!はい、確か、街を見ました!」
「やはり、そうでしたか…。私もその場面を想像上で見た時、あなたは安堵した後、仕事モードから一旦離れて、かつての住人として街を見渡していました」
「ほんとうですか?どこかで覗かれてたみたいです…」
「もちろん、あなたの部屋は覗けませんが、泣いている人の内側は覗けますのでアハハ!」
行動したつもりと、本当に行動する違いとは?
「あなたは緊張あふれるミッションを終えたときに自然と安堵の感覚を覚え、続いて、さらに張り詰めた気持ちや、こわばった身体をリセットするために、姿勢を変え、視界を広げ、結果、風景を見てしまったはずです」
「はい、無意識でしたがそんな瞬間が確かにあった気がします!」
「そうやって初めて、あなたは安堵したという事実を思い出すだけでなく、それを実際に経験できたのだと思います」
「私はさっき、安堵という段取りを思い出しただけだったのですか…」
「そうは言いません。確かにホッとしていました。ただ、それから家族をふと思い出し、涙を流す、という事が起きうる身体感覚に至るのに十分なほどは安堵を味わうという行動はしていませんでした」
「それが抜けていた行動ですか?」
「はい、過酷な仕事モードを引きずったまま涙を流す場面では無いと思いました。もし、あのまま涙が運よく流れていたとしたら、むしろ不自然な感じを受けたかもしれません」
「そうですね、私も今考えてみると涙を無理強いしていたような気がします。頭ばかりが次の展開を欲していて身体がついてきていなかったのですね。」
「はい、恐らくあなたが上手く行った時に経験したのは、作業に極度に集中していたお陰でいっとき、現実を忘れられていたのでしょう」
「はい」
「しかし、ホッとして周囲に目を移した瞬間に壊滅した街を見た。そして、その街で幸せに生活していた家族や自分を思い出した。その温かい家族の姿を背景に、強いコントラストで、迫ってくるあまりに悲惨な現実を改めて見せつけられた感覚だったのではないでしょうか?」
「まさに、その通りです!」
「改めて、それぞれの行動の有機的なつながりに焦点を当てて見ましょう」
「はい」
「…」
「全ては、行動し、その結果の感覚が身体に起き、その感覚が次の行動の動機や準備となり、という風に有機的につながっています」
「なるほどです…」
「ところが、一度それがうまくいってからは安堵の次に家族を思い出すという風に段取りを追っていたのです」
「はい」
「あなたの演技は記憶にいざなわれるのではなく、身体にいざなわれるべきです」
「はい」
「本当に行動すると、何かしら身体に変化が起きます。また、本当に行動するためには、それに応じた身体的感覚が伴った準備が必要です」
「なるほど」
「仕事モードのまま、あなたの深刻な相談に寄り添そえはしないのです」
「分かります…それが原因で元カレとよくケンカになってた気がします…」
「被害者意識の身体的感覚のまま、謝罪会見しても炎上するだけです」
「?なんですかそれは…」
「いや、これはまたの機会にお話ししますアハハ!」
本当に見るために訓練が必要
「そして、安堵したつもりなのと、安堵を本当に経験するのが違うのと同じように、単に家族のイメージを見ることと、家族を見ることを経験するのは違うのです」
「…」
「緊張モードが完全に溶けきれないままだったせいもしれませんが、あなたが見た家族像には内容がない気がしました」
「どういうことですか?」
「恐らく、必要なのは家族の幸せだったころを思い出すことですよね」
「そうだと思います」
「その瞬間を見れば、あなたは一瞬でも幸せになったはずなのです。顔が一瞬でもほころぶとか、少し、愛おしくなって胸が苦しくなるとか」
「はい」
「その経験が伴ってこそ、幸せだったころの家族をあなたが本当に見たと言えるのです」
「そうか、家族を詳細に思い出せればよいわけでは無いのですね…」
「ええ、家族を見たら起きるであろうことが、あなたの身体に起きた時に初めてあなたは本当に家族を見たと言えるのです」
「わかります」
「この場合は、失ってしまった暖かな居場所、としての家族を身体に思い出すことが求められているはずです。すると、写真のように正確に家族を思い出すことではなく、むしろ、イメージが多少ぼやけていたとしても、彼らの笑い声の一部でもが響いたり、あるいは笑顔の一瞬が眩しかったりする体験をともなっている方が家族を本当に思い出したという経験をあなたの身体に起こしたのではないでしょうか?」
「良く、分かりました!今まで正確にイメージを見る事が本当に見る事だと想い込んでいましたが、写実的なイメージよりも、ドラマティックなイメージを見た方が良いということですね?」
「そういう事です。実際、私たちの記憶はやたら劇的に仕上がっているモノではありませんか?」
「なるほどです。イメージを見る訓練と称して正確に思い出す訓練をした事があったのでちゃんとイメージを見るとは正確に見る事だと勘違いしていました」
「もちろん、見たモノを正確に観察し、記憶し、描写する能力を俳優は磨くべきです。しかし、それはつい、見るとは何か分かっているつもりになっている認識を改め、知っているつもりの世界を改めて見直し、世界を再発見するための訓練です。訓練のメニュー通りに演技することがリアルを再現するわけではありません」
「はい」
「むしろ、実際に私たちの心を動かすのは現実世界そのものではなく、私たちがその世界に投影した解釈やイメージであることは忘れないほうが良いと思います」
「はい」
「スタニスラフスキーも言ったように演技は経験の芸術です。記憶の芸術ではありません」
「経験の芸術…」
「記憶は頭でしますが、経験はどこでしますか?」
「身体に備わった五感です」
「そうです、経験の芸術を成し遂げる俳優には実生活に必要とされている以上の繊細な五感、想像力に敏感に反応する五感が欲しいのです」
「想像力に敏感に反応する五感…」
「五感の訓練を通して、有機的な行動の繋がりを見落とさず、それを細かく再現し、やっているつもりと本当に行動することの違いを見極められるようになるのです」
私は長いあいだ、演技の基礎訓練を一種の通過儀礼のようにしか捉えていなかったのかもしれない。
ゲーム性もあったりして、その時々は楽しかったりするけど、本当のところはどう役に立つのか、役に立たせるのか、本気で考えて来なかった…
その効果を本当には信じていなかったのかな…
演技に効果を感じられなくても、訓練の仕方を見直そうなどとは思いつかなかったから。
ただ、流していた。
でも、そもそも、演技とは何かを明確に出来ていなかった私が、基礎訓練の意味や価値を推し量れる術も無かったのかもしれないけど…