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【行政書士試験失敗記】18話 明日の自分が何とかしてくれることは無い

 この間、夕食時にTVで流れていたクイズ番組で「中原中也」という詩人が出てきた。

 私はドキッとした。

 この方の詩「サーカス」を私はよく知っている。

 素晴らしい詩だと思う。
 素晴らしい詩だと思うが、どこが素晴らしいのかと言われると私は答えることができない。

 いつかわかると思って問題を先送りにし、今に至るまで結局わからない。

 私のトラウマの一つである。


 なんとなく我々は明日の自分に期待する。

 物事がうまくいっていないとき、例えば模試の点数が思った以上に伸びないとき、次はなんとかなるだろうという楽観的な考えを持っていたりしないだろうか。

 私もその手の人間だった。
 何度も何度も模試を受けているのに、点数が180点を超えることができない。

 勉強時間は確保しているはずなのに点数が伸びない。

 そうなったとき、私はなんとなく明日の自分に期待してしまっていた。

 まぁ、今はこんな感じだけど明日になればなんとかなるだろ。


 そんな過去の私に現実を教えてやりたい。

 決してなんともならない。なんとかなりようがない。前向きと楽観的は違うのだ。

 学生時代から、私はこのなんとなく明日の自分に期待するという悪癖があった。

 なんとなく都合のいい方向に行くだろう。
 なんとなく丸く収まるだろう。
 なんとなく全部うまくいくだろう。

 それはまやかしでしかない。

 
 声優という職業に憧れた私は、ブーム真っ只中の時代、とある声優養成所の門戸を叩いた。そこには志を同じにする声優志望の男女が夢を目指し、切磋琢磨していた。

 私はその集団に交じりながら、発声練習や芝居の訓練に明け暮れた。

 ある日、朗読の課題が出た。与えられた課題は中原中也の「サーカス」の朗読だった。

 検索すれば出てくるのだが、是非読んでみて欲しい。そして感じて欲しい。私にとってはそれだけ衝撃的な作品だった。

 一文一文がなにを言っているのかわからない。それでいて一文一文にとんでもなく深い意味がある気がする。

 さながら美術館に行って絵画を見たあの感覚に近い。

 なんとなく、いいんだろうけど、どこがいいのかわからない。
 なにかを伝えようとしてくれてはいるが、何を受け取ったらいいのかわからない。

 仕方がないので「素晴らしい作品だねぇ」なんて小声で一緒に来た友人と語りつつ、眉間にしわを寄せながらゆっくりその場を離れるしかない。

 そこで誰かに「どの辺が素晴らしいんですか?」「この絵画のメッセージはなんですか?」なんて言われた日には泣いて謝るしか選択肢が無い。

 そういう感覚を私は中原中也の「サーカス」に味わった。
 特にわからなかった一文を載せておく。

 落下傘奴のノスタルジアと
 ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん

中原中也 サーカス

 この一文を見て、どう理解しろと言うのだ。当時の私は思った。

 「ゆあーん……」の部分は詩を読んでいれば、恐らく空中ブランコの擬音なのだろうとわかる。それにしても空中ブランコが揺れる音を「ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん」と表現する時点でもう訳が分からない。

 まず落下傘奴(らっかがさめ)ってなんだ? ノスタルジアってなんだ?

 というかそもそもこの詩を朗読って、講師は私に何を求めてるんだ?

 私は頭を抱えた。これを読めるのかと。声優になる人間はすべからくこれを理解し、気持ちのいい声で朗々と読んで聞かせるのかと。

 そして結局、私はどうしたのか。

 問題を先送りにした。つまり、明日の自分に期待したのである。

 まぁ、授業を受けていればそのうち理解できるだろう。
 できなくてもとりあえず練習していれば明日の自分がなんかこううまい感じにやってくれるだろう。

 そう思った。
 そうして結局私は「なんとなくうまくやるだろ」という意気込みで課題に挑んだ。
 言わずもがな、手も足も出ない酷い結果になった。

 結果的に私が所属していたクラスは全滅。誰一人、講師の納得する朗読をすることができなかったのである。

 私は自分の悲惨な結果を受けて、悔しくて悔しくて仕方なかった。

 それでもいつか、いつか私はこの詩を素晴らしく朗読する声優になろう、いつかリベンジしてやろう。そう思った。

 そう決意したその日から約10年が過ぎた。
 私はというと、声優の夢をあきらめ、気が付けば行政書士になっていた。

 10年経った今だから言える。
 今でも、あの詩を全く理解できない。
 なんとなく良いんだろうけど……という感想から一歩も進展していない。何一つ。

 ゆあーんってなんだ? ゆやゆよんってなんだ?

 10年前の私から何一つ成長していない。

 そして私は同じ経験を行政書士試験でも繰り返していたのである。

 明日の自分が何とかしてくれるだろう。

 いや、明日の自分は自分でしかない。
 今の自分ができないことを明日の自分がなんかうまい感じに、なんて到底できない。

 だって明日の自分も自分でしかないのだ。

 問題を先送りにして、明日の自分に押し付けたとしても、その明日の自分は今の自分の延長線上にしかないのだ。

 今の自分が問題に直面し、分析し、対策を立てなければならない。明日の自分が何とかするのではない。今の自分が何とかしなければ物事は好転しない。

 問題を先送りすること、例を挙げるならば「答え合わせ」がある。
 以前の私はこの答え合わせというものが嫌いだった。

 模試を受けても自己採点だけをして、問題をいちいち確認することはしなかった。
 問題集に挑戦しても正誤だけを確認して、すぐに次の問題に取り掛かった。

 すでに結果が出ているものに価値など無いと考えたからだ。
 点数はすでに決まっているのに、合っているか、間違っているかはもう分り切っているのに、今更問題を一つ一つ確認して何になる。
 解けなかった。解けた。それだけ分かっていれば十分だろう。

 そう、解けなかった問題は明日の自分が何とかするさ。

 そんな楽観的な考えだった。

 今、当時のことを振り返りながらこの記事を書いているが、自分のあまりの愚かさにゾッとしている。

 私は結局、過去のトラウマから何一つ学べていなかったという事実が明確に転がっていた。

 同じ間違いを繰り返さない。
 それは全ての資格試験で徹底されるべきものだ。

 しかし、自分の間違いに向き合うにはエネルギーがいる。出来ることなら向き合いたくない。今日の自分がやりたくないことを急に明日の自分がやりたくなるわけがない。
 だから同じ問題を間違える。延々と。

 昔、ドラマで「明日やろうは馬鹿野郎」というセリフがあった。
 このセリフは秀逸で、今でも目にすることはある。

 今日の間違いは明日の自分が解決するなどとは思ってはいけない。

 中原中也がサーカスに込めたメッセージを、10年経った今でも、私が理解できないのと同じように、今起こした間違いは、今のうちに片づけておかなければならない。

 今サボった自分は、明日の自分でもある。今サボれば、明日もサボるだろう。当然だ。明日サボる自分も自分なのだから。

 テレビに映る中原中也の詩を眺めながら、そんなことを思った。

 あの頃にもう少し違う考え方を持っていたら。今はもう少し違うものになってたんじゃないかと思ったりもする。

 しかし、しかしである。
 アラサーになった今だからこそ思うのだが、そもそもこの課題、最初からクリアさせる気などなかったのではないだろうか。

 果たして中原中也の「サーカス」を上手く表現できる人間が何人いるのだろうか。そもそもあの時担当していた講師自身もできたのだろうか。

 そんな風に下衆の勘繰りをしてしまうくらい、この詩は私の人生に大きな影響を与えた。

 みんな分かってる振りして、分かっていないんじゃないだろうか。

 実はみんな、美術館を回る観客のような面持ちなんじゃないだろうか。
 今更ながらそんな風にも思うのとは逆に、みんなはちゃんと理解できて、私だけ感性が貧弱だったんじゃないかとも思う。

 ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん。

 サーカスの空中ブランコの様に、私の思考はいつまでも行ったり来たりしている。

 何が言いたいんだか分からなくなってきた。明日になればわかるのだろうか。

 いや、多分わからない。
 わかることはないと、過去の私が言っている。

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