7年前の自分の考え方 突き詰められる何かを無理に「見つける」のではなく「気付く」へ
7年以上前に、発達障害と診断されました。
診断がついたタイミングで、自分なりに考えをまとめようとしていた記録が発掘されたので、改めてその時の文章を振り返りたいと思います。
僕はWAIS-Ⅲ検査を受けて、発達障害の診断を受けました。 当然動作性IQと言語性IQの凸凹は大きく、言語性IQ-動作性IQ=25程度の差がありました。
今働いている職種は言語性IQが求められるような仕事が限られてくるため、結果が分かってからは向いてないと考えました。言語性IQの高さを活かした、自分でも突き詰められる「何か」ならば、こんな自分でも無理なく働けるのでは、と思ってもいました。
しかし、現在(2016/11時点)、その考え方は少し変化しています。
どのような考え方にシフトしていったか、今日は綴っていきたいと思います。
「見つける」努力は自分を潰す事にもつながりかねない
僕は、幼少期から本を読むことが好きでしたし、国語だけは大して勉強しなくてもそれなりの点数を取れていたので、正直、言語的理解においては自信があります。
しかし、現在の職種は、じっくり言葉や行動の意味を考えるというよりも、とにかく即座の対応を求められる仕事です。また、短期間に同時に複数の依頼があるため、ワーキングメモリーの少ない自分には不向きですし、その認識自体は今も変わっていません。
言語性IQが分かってからしばらくは、今の仕事は向いていない、少なくとも向いている部署でないと自分は潰れてしまう、とばかり考えていました。
今になって思うと、このような考え方をしていたから、自分を正当化しすぎて潰れてしまったのかなとも思います。
しかし、今となっては、見つかるかもわからない、向いていることを「見つける」努力よりも、他にすべき努力がある事にようやく気付きました。
真に努力すべきは「自分がどうすれば潰れないか」突き詰めること
結局、一芸に秀でていても、それが社会人として有能だと認められるレベルまで昇華させなければ、今の日本では生きていけないことに気付きました。
また、一芸に秀でた有能だったとしても、「有能同士の潰し合い」の環境に必然的に身を置かなければならなくなります。
それらを加味した上で、本当の意味で「自分に向いていること」を探すことなどできないと薄々感じていたし、自分の才能に対しても、自分でも未だに半信半疑です。
結局、「見つける努力」は、僕を辛くすることはあっても、前向きな気持ちにはさせてくれませんでした。
しかし、逆説的に言うならば、「見つける努力」をやめれば、その分僕は辛くなくなるわけです。
つまり、僕がすべきは、「見つける努力」を含めた、「こうすべき」という自分を潰しかねない固定観念を1つずつ捨てていく、「自分を潰さないための努力」だと気付きました。
「見つける」から、「気付く」という受け身になってみたい
やっぱり、固定観念というものは、ある程度主体的というか、主観的というか、悪く言ってしまえば独りよがりになりがちだと思います。
今までの固定観念の中から何かを「見つけよう」と思っても、最適な答えなんて見つからないのはある意味当たり前なわけです。
今の僕に必要なのは、「見つける」のではなく、他者との関係の中で、関係性構築のコツや本当にやりたいことに「気付く」ことだと思います。
自分や相手を固定観念の中で潰していくのではなく、相手との関係性の中で何かに「気付く」。
主張するのではなく、謙虚に受け止める。その中の「気付き」の蓄積の中に、僕が突き詰められる何かに気付く時がきっと来るはずです。
その時までは、やはり自分と家族の心と体を第一に考え、普段の生活を少しでも充実させていければいいなと思います。
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