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古本に染みついた誰かの家の匂い

 古本屋で本を買う。神保町まで行くこともあれば、近所のブックオフで済ませることもある。そうして買ってきた本の一冊をめくった時、僕は必ずその匂いを嗅ぐのだ。

 古本には、新刊本にはない独特の匂いがある。年季の入った本ほどに強くなる、紙の焼けた、一寸甘いようなアノ匂い。……だが、僕がここに記すのは、そんなありきたりな匂いではない。古本屋に長い間捕まっていた本よりも、むしろ回転の速いブックオフで買った新しい本に多い、「誰かの家の匂い」である。

 例えば僕は、ここに一冊の本を用意した。ブックオフで先日購入した「86」(エイティシックス)という、ライトノベルである。僕はページをパラパラとめくり、微かに顔を撫でる風の中、紙の匂いに混じって明かに異質なソレを見出すのだ。
 ──甘い、石鹸のような匂いがする。花の香り、というようなあからさまな人工のモノではない。風呂に入った後の少女の髪のような、なんとなく官能的で、濃厚、そして澄んでいる。半透明なクリーム色……とでも言おうか。そんなような、匂いがする。

 人にはそれぞれ独特の体臭があり、体臭があるならば当然家の匂いにも特徴は生まれる。長期間の間にその匂いは本に染みつき、他人の手に渡った時、明らかな"異物"として主張を始めるのだ。犬のマーキングにも似た、面白い現象である。
 もしかすると我々は、本能的に匂いで「自分の領域」と「他の領域」を区別しているのかも知れない。匂いは古い記憶を喚起することもあるし、味覚にもかなりの影響を与えると言う。嗅覚というのは案外我々の思っているよりずっと重要な感覚なのかも知れない。

 僕は古本の匂いを嗅ぎ、誰か……見知らぬ誰かの家に想いを馳せる。これは案外楽しい。病みつきになる。変態的かも知れないが、平凡であることよりも、ずっと尊いと僕は思う。何より、面白いではないか。

 これをネタに、何か良い小説が書けるかも知れない。ネタ帳に加え、今書いているシュルレアリスム長編が完結したら検討してみよう。

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