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夕暮れまでには戻ります

思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ。
(すべてがFになる/森博嗣)

そう言って、彼女はお気に入りの赤い靴を履いて玄関を出ていった。
なにげない言葉で、僕はいつものように軽い気持ちで見送った。
今日から長い長い白夜が訪れる。

執筆作業は遅々として進まず。
かたつむりの速度より遅い。
しかし、歩いている限りは、まだ終わりではない。

今日もインターネットではあれやこれの意見がああでもないこうでもないとバチバチに火花を散らしていて、人々が無為な時間を過ごしている。

一週間の終わりに週報的な意味合いでnoteを更新しようかな、という気持ちが出ているのだけど、これを義務とすると一気にやる気が失われてしまうので、難しい限りである。
文章を書くことを義務化すると、能動的な行為が必然と受動的な行為になってしまう。後ろから突き動かされているのではなく、前から引っ張られているようになるのだ。
感想を持つ以前に感想文を書かなければならないと言われているようなもの、といえばわかりやすいのか(そうでもない)。
世の中には締切駆動型が良いという人もいて、私もそうでないとは言えない面がありつつも、やっぱり情動が先に来ている方がスタートしやすいと思っている。最後まで書き切るのは締切駆動型でもいいだろう。
過去に出版した小説は、「なんだかよくわからないが書かなければいけない気がする」で書いた小説と「とにかく締切が存在していて書かなければいけない」で書いた小説があって、まあ、書いている間の気持ちがどうかというだけなので、実際の出来や売り上げがどうかはわからない。
ただ、締切駆動型はかなり外的なプレッシャーがあったので、今後、これを継続的にこなすのは能力的にかなり厳しいだろう、という反省があった。
もちろん、これには、商業作品を出版しなくても、本業をきちんとこなしていれば生活できる、という大前提がある。
やはり、趣味的に書き続けるか、完成品を応募し続けるか、の二択が精神的に安定するのではないか。
もし、この世界に一人でも私の作品を欲する人がいれば、私はその人のために書けばそれでいいのだろう。(その人のため、とは、その人が気に入るように完全なカスタマイズをする、という意味ではない)

言わなくてもいいことは言わない、という判断ができるのが大人だとしたら、私はまだまだ子供のままだろうな。
(しかし、そうなるべきか?)

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