「語れる何か」を持てなかった自分へ。

実は今年の3〜5月くらい、ひさしぶりに抑鬱傾向が強く出る時期があった。

前回は10年前くらい。

当時よりは大分マシだったけれど、それでも今回もまわりの人たちに沢山助けられて、救われて。
ありがたいことに、今は大きな症状も出ずに暮らせている。

以下の文章は当時くらいに、ウィルドアの社内メンバーに向けて共有したテキストになる。30代も半ばになって、ただただ恥ずかしい吐露だけど「誰かの役に立つかもな」と思ってシェアしたもの。
その後「実はあの文章に救われました」と報告をもらった。

もしかすると、誰かにとってのちょっとでも役に立つものが含まれているかもしれないので。リライト加えてあらためてnoteにも出してみる。


言い訳が続くけど「ずっとそう考えていた」類の話ではなく、あくまで振り返ってみると、ずっとそういう考え方・思考が底流にあった。という話。

好きなもの・語れること・誇れるものが自分の中にない感覚。

高校時代から、今に至るまで感じる自分の薄っぺらさ。
ウィルドアの社内・現場に集まってきてくれる人たちの中に、必ず感じるような。ぼく自身が好きで、一緒に居られたらと願う人たちの中に、感じるような。そこまで強いものじゃなくても、多くの人が当たり前に持っているように見える「自分の感情や、感覚への信頼」。

ぼくの中には、そういうものが見当たらない。

小手先の技術や言葉、器用さ以外に、大して役に立つものがない。

自信を持ってー、あるいは何の疑いもなく「好き」だと言えるもの。
自分の中にある「楽しい」や「正しさ」に、人を巻き込んでいけること。

そんなものを持っている人たちのことが、ずっと羨ましかった。
憧れだった。

けれど、どれだけ探しても自分のなかにそんなものは見つからないから。

・役に立つこと
・優しく在ること
・誰かに対して貢献できること

そんなものを、薄っぺらさを補うために生存戦略として身につけてきた。

その試みは、たぶん10代の後半から少しずつ身に付けていって。
少なくとも、この5年くらいは上手くいっていた(ような気がする)。

役に立っていることで、肯定された此処に居ること


「役に立てている実感があるから、自分でも此処に居て良いんだ」
と。

そう思える瞬間は、たしかにあった。
「予備用の部品」にしか思えないような自分でも‥。

フラットに見て、なにかしら役に立ったこと・誰かの力になれたことはあったと思う。
それは今でも。うん、ちゃんと思える。

諦めから身に付けた生きる術だとしても、
「これはこれで悪くはない」と思えていた。

メンタル不調にさえ陥らなければ、そう問題なく誤魔化し誤魔化し生きていけたのかもしれないくらいには。

けれど、成果や変化を語ることが難しく、自身の役割上、目の前で関わる人の数が減っていく中で、年々その感覚は薄くなっていった。

社会人にも大学生にも、周りに集ってくれる人たちが魅力的な人ばかりだからこそ。

「自分より年少者に関わることで労せず得られる、カスみたいな自尊心で、マウンティングできる位置に居るためにやっているのでは?」

そんな風に問いかける自分が強くなっていった。

「この場に居続けていいのか」って疑いが、ぼんやりと、いつも頭のなかにあった。

だから、昔にも増して「貧乏くじ」を積極的に引くことで、役に立っている“感”を保とうとしていたんだろう。

今回、底が抜けてしまったのには、いろんな要因があったけれど、

この「役に立っている感を得ようという浅はかな姿勢・指向が、組織とみんなの足枷になっているんじゃないか‥という気づきは大きかった。
整えようとしすぎること・サポートしようとしすぎることが、いろんな可能性を奪ってきた。

できたことがなかった訳じゃない。
けれど、もしかすると何もしない方が・居ない方がマシだったのかもしれない。

そう思い当たってしまったことで、
「役に立つ自分」をベースに築いてきた土台が崩れてしまった。

回復してきて、過度なネガティブ傾向は収まった今は、組織にとって〜とか誰かに対して〜とか、この辺の事実は誰にも分からないことなので、「考えても仕方ないこと」と割り切れてはいる。

けれど、誰に・何を言われても変わらない「自分の空っぽさ」が、
自分にとっても、周りの人にとっても悪しく働いてしまったのは事実だったと思う。

「役に立つこと」を基盤にした自己肯定は、弱くて情けない自分を保つ有効な手段であると同時に、他者への依存


だと。そう理解した。
役に立つことが、サブだとか複数の内の1つなら良い。

けれど、それを「わたし」の基盤に据えてしまうことは、
歪んだ自己認知を育むし、最悪の場合、他者の搾取傾向にもつながり得る。

異国日記の最新刊でも言っていたけれど、
貢献を持って自分を保つ秘訣は、何も返ってくることを期待しないことだ。

誰のために何をしたって 人の心も行動も決して
動かせるものではないと 思っておくといい

ほとんどの行動は 実を結ばない
まして感謝も 見返りもない

(異国日記 第9巻より)

この台詞の後にはこう続く。

そうわかっていて なおすることが 尊いんだとも思うよ

(異国日記 第9巻より)

そう語る槙生さんは、決して清々しい表情ではなかった。
孤独・自分への怒り・諦め・悲しさ‥それでいてそうしか生きられない覚悟もあったのかもしれない。尊いなら、そうしなければいけないのか。

(たぶん、そうではない)

そう生きるのが、正しいのか。

(たぶん、そうではない)

けれど、そうとしか生きられなかった人は、生きてこなかった人は、どうすれば良いんだろう?

今からでも良いから生き方、捉え方を変える努力をすべきなんだろうか。
仕方ないと割り切って、割れそうな床の上で諦めて生きていくべきか。
少し時間をもらえている今、どうするかをあらためて考えてみようと思う。

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