よくわかる均衡理論の歴史(7):独占や寡占とクールノーの極限定理

 はい、なんかまだやる気かこのやろーって感じですが続きます。前回まではこちら。

 でまあ、今回はいわゆるプライス・テイカーの仮定まわりの話です。普通ミクロ経済学の授業だと、まず生産者が十分多いことを仮定して、彼らが牽制し合うことで価格を誰もコントロールできないという前提の下に、彼らにとって価格は動かせない与件だという「プライス・テイカーの仮定」を置いて議論して均衡の話をします。そしてその後、それが成り立たない独占や寡占の理論へ続いて、クールノーゲームやベルトランゲームの話を……と続くのですが。
 歴史的に言うと逆なんだこれが。
 いや、だってクールノーの本、調べてみるとわかるけど、出版1838年よ? ワルラスが『純粋経済学要論』で均衡理論のひな形を公開したのが1874年。二世代くらい違うよ。だからプライス・テイカーの仮定は上から与えられたものじゃなくて、プライス・テイカーの仮定を正当化するための議論の方が先にあって、それをヒントに均衡理論が作られた、ってのが正しい順序。
 もうちょっと言うと、クールノーってエコール・ポリテクニク出身でポワッソンの弟子で、そしてワルラスの父親と同級生なんだよ。だからワルラスは明らかにクールノーの影響受けてる。じゃあクールノーは、なんで経済のモデル分析なんてものをやり始めたのか?
 こっから先は伝聞になるんだけど、まずその当時の数学は複素解析を使った重厚で長大な計算の山が主流で、それに取り組むためには長時間紙とにらめっこしてペンを走らせる作業が必要だった。ところがここに問題があって、クールノー、目が悪かったらしいんだ。そこで、師匠のポワッソンは、純粋な数学で彼が身を立てるのは難しいんじゃないかと考えて、べつのプログラムを与えることにした。
 んで、もう少し前の時代、ナポレオンが革命から身を立てて皇帝になった頃、旧来の社会科学者はナポレオンの先進的な社会改革プログラムを支持してくれなかった。そこでナポレオンは一計を案じて、まったく違うタイプのブレーンを呼んできて、自分の政策にお墨付きを与えてもらおうとした。実際、ラプラスやラグランジュはかなり彼の政策に影響を与えていたらしいが、ポワッソンはまだそのような時代を覚えている世代だったので、そこからクールノーに、社会科学に数学を使ってみてはどうかと助言したらしい。こうして、クールノーの有名な本が出ることになった。
 ちなみにベルトラン競争で有名なベルトランはどっちかというとクールノーを批判するためにモデルを作って議論したらしく、あまり純粋な動機じゃないんだよねー、これ……時代も1880年代と新しいし。だからクールノーは本当にいろいろと自説の擁護のために議論を割いているらしくて、たとえば大数の法則を使って、人々の行動のランダムな部分は平均を取ると無視できるようになって、よい数学的規則に当てはまるようになるだろう、なんて議論をしてる。こういう議論はむしろ現代的とすら言えて、数学あんまり得意じゃなかったワルラスとはぜんぜん違うんだよねえ……
 ともあれ、クールノーの極限定理の方がプライス・テイカーの仮定よりも先に示されているというのはかなり面白いわけで、だからプライス・テイカーの仮定は天下り式じゃなくて、クールノーの研究を経由して出てきたものなんだよってのが今回のお話でした。
 あとクールノー=ナッシュ均衡って言い方はさすがにもう古めかしいよねえ……たとえ一世紀以上古いとはいえ、もういまの経済学から見ればこれは「クールノーゲームのナッシュ均衡」なわけで。ああいうのやめない? むしろナッシュ均衡がない時代の研究なんだから「クールノー均衡」でよくない? と思ったりする。なんかあのあたり、もにょるんだよなあ。
 あ、次回は部分均衡です。それじゃ。

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